秀樹杉松

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上野に待望の帝国図書館が出現! だがまたもや戦費に泣かされる。 ~ 中島京子『夢見る帝国図書館』を読み、感動しました (4) ~

     旧・帝国図書館(現・国立国会図書館国際子ども図書館」)

  

『夢見る帝国図書館』(中島京子著) の第4回読書メモです。文部省や図書館関係者の悪戦苦闘の末、やっと念願の帝国図書館」が上野に誕生しましたが、またもや、、、。

 

樋口夏子[一葉]がその若い命を散らしたのは明治29年のことだったが、赤煉瓦の書庫を持つ図書館がとうとう化粧煉瓦の新しい建物に移って、

帝国図書館としてオープンするまでには、それからさらに10年かかった

 

この間、図書館関係者が涙ぐましい努力を続けていたことは想像を絶するほどである。実のところ、帝国図書館設立運動の萌芽は明治10年代に遡る。その後、東京教育博物館長手島誠一が、時の文部大臣森有礼に諮り、のちに初代館長となる田中稲城を、米国と英国に留学に出したのだった。これが明治21年8月のことで、田中は翌々年に帰国する。

 

東京図書館が湯島から上野に引っ越したり、近眼の樋口夏子に赤煉瓦倉庫を持つ東京図書館が岡惚れしたりしている間、文部官僚は必死になって、帝国図書館建設のために動いていたのであった。明治23年に図書館長を拝命した田中稲城は、あたかも永井荷風の父・久一郎の魂が乗り移ったかのごとく、帝国図書館を作るべく必死の嘆願を繰り返した

 

なぜといって、田中稲城の焦燥は、志において「ビブリオテーキ」を作らねばならんの福沢諭吉、現実的課題においては、どんどん予算を削られて臍(ほぞ)を噬(か)んだ永井久一郎を、そのまま引き継いだかのようだったのである。

それなのに、政府は日清戦争を始めてしまって、経費はどんどん減らされていき、増築など夢のまた夢という事態が出来する。日清両国の講和条約が下関で調印された日、田中館長は両こぶしを握り締めた。「もう、戦費が必要とか言わせないから

今度こそ、図書館を立ててもらうから!

 

そしてしゃかりきに各方面に働きかけ、ようやく世論を動かし、明治29年2月10日に、帝国図書館ヲ設立スルノ建議案」が出されるに至ったのである。樋口夏子がこの世を去る日から遡ること10ヶ月弱といったところであった。発案者であった貴族院議員、外山正一は、「外国では、20万、30万、40万ぐらいの経費であるのに、我が国の東京図書館の経費は、わずかに8千程でありますよ。50分の1だよ、2パーセントだよ」

 

かくして明治30年4月帝国図書館設立案」が無事に貴族院衆議院を通過した。そして田中稲城は初代帝国図書館に任ぜられたのだった。

帝国図書館の敷地は上野と決まり、明治32年には、収蔵可能書籍120万冊、閲覧席730席の、素晴らしい設計図が完成した。中庭を囲む枡形の平面を持った地下1階、地上3階の、威風堂々の古典主義様式西洋建築であった。

目指すは東洋一、いやいや、世界一の図書館建築!

 

明治33年3月、第1期工事が華々しくスタートし、東側ブロックを着工した。東側ブロックは出来上がった。しかし、東側ブロックしかない

これが明治38年のことで、なぜだか東洋一、いや、世界一の図書館建設はストップする。いや、なぜだかではない。理由ははっきりしていた。明治37年日露戦争が始まったのだ。

明治10年西南戦争に際して永井久一郎が陥った苦境とまったく同じ状況が、帝国図書館初代館長田中稲城を襲った

 

「・・・これ以上の建設はムリ。これだけでも立派な建物じゃないですか・・・」 

このように説得されて、田中稲城は、翌明治39年に竣工式を挙行し、帝国図書館をオープンすることになったのである。

東洋一、世界一の図書館の建設は、こうして幻となったのだった

 

中島京子『夢見る帝国図書館』p.105-108から)

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『秀樹杉松』108巻2890号 2019.7.3 / hideki-sansho.hatenablog.com #530