満開の桜(善福寺川)
今日は4月1日。いろんなことの”スタート”ですが、「18歳以上成人」は文字通り画期的ですね。
さて「義経Study」シリーズ」も、いよいよ面白くなってきました。今回(No.4)からと4回にわたって、義経不死伝説・義経北方(北行)伝説・義経=ジンギスカン説を取り上げます。
ネット情報「Wikipedia (ja.m.wikipedia.org)」 をテキストに、義経Studyを展開していますが、ウィキペディアには「義経=チンギス・ハーン説」と「義経=ジンギスカン説」の二つの情報が出ているので、本号では「チンギス・ハーン説」を、次号で「ジンギスカン説」を取り上げます。(註:チンギス・ハーンとジンギスカンは同一人物)
私たち古い世代は「成吉思汗」(ジンギスカン)と習いましたが、今はカタカナで「チンギス・カン」「チンギス・ハーン」「ジンギスカン」「ジンギス・カーン」などと書き、ややこしいですね。ちなみに、「ジンギスカン」をネット検索したら、真っ先に「ジンギスカン(料理)」が出てきてびっくりしました。
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○Wikipediaによると、チンギス・カンは、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)で、チンギスハン、チンギス・カン(チンギス=ハン)、モンゴル語:Cinggis qugan.svg、漢字:成吉思汗、とも表記される。
○ハーン(汗、可汗、khaan)は、北・中央・西・南アジアにおいて、主に東北に住む騎馬民族の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗ったカガンはその古形である。
◉カン(ハン)とカアン(ハーン)
○12世紀のモンゴル高原では、「カン(Qan)」は、モンゴル、ケレイト、ナイマンなどの部族の長が名乗る称号(君主号)であり、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンも、彼の在世当時はチンギス・カンと称していた。
○チンギス・カンを継いだモンゴル帝国第2代君主となったオゴティは、他のカンたちとは格の異った存在であることを示すため、古の「カガン」を復活させた「カアン(qa’an)という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた元王朝も「カアン」の称号を受け継いだ。
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【伝説】
○優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき)というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。
○兵書『六韜』『三略』を盗み出して読んだ話、義経伝説の衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。
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【不死伝説】
○後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方(北行)伝説」と呼んでいる。寛政11年(1799年)に、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。
○「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
○未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
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(詳細は「義経=ジンギスカン説」を参照)→次号掲載
○この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。
○この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
○このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
○明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。
○大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
○彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。
○こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。
○現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。
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〜 以上、ネット情報「Wikipedia (ja.m.wikipedia.org)」に依る。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』129巻3907号 2022.4.1/ hideki-sansho.hatenablog.com No.947