福山英樹の半生(5) ズーズー弁(東北方言)、国民学校分教場
(写真撮影:Atelier秀樹)
「福山英樹の半生」第5回は、ズーズー弁(東北方言)と国民学校分教場です。ぜひお読みください。/ Atelier英樹
<ズーズー弁>
東北の方言は「ズーズー弁」で有名だが、シとス、チとツ、ジとズが区別できないなどの特徴で知られる。
英樹は、上京直後これで一番苦労した。自分では標準語を話しているつもりでも、何かの折りに「福山さんは東北出身ですか?」と聞かれた。中学生まで話していた言葉遣いやイントネーションは生涯つきまとうようだ。何しろ、シをス、チをツ、ジをズと発音して育ったので、何かの拍子にそれが露出しかねなかった。それと、イントネーションで直ぐ分かるらしい。
<地域>
英樹は漢字には絶対の自信があった。ところが、高校時代に国語テストで「地域」にチエキと振り仮名したら、(100点満点のつもりが)☓がついて戻ってきた。どうしてか、と先生に噛みみついたら笑われた。田舎(ズーズー弁)ではイをエと発音するので、それまで長い間、地域をチエキ、と発音通りに読んでいたのである。
<雪柳>
こんなエピソードもある。父が家の周りの垣根(低木)を毎年丁寧に剪定し、季節になると白い小さな花が咲いた。米粒のような可愛い白い花は、秀樹も大好きなので、ある時思い切ってこの植物の名を父に尋ねた。
父は「ユジャナギ」だと教えてくれた。
聞いたことのない名なので、外国から入ってきた植物かなと思われた。漢字名はないのか。何十年間もそう考えていたが、ある時に「雪柳」が存在することを知った。
父はもしかして「ユキヤナギ」を例のズーズー弁で話したので、「ユキヤナギ」が「ユギヤナギ」→「ユギャナギ」→「ユジャナギ」と聞こえたのでしょう。ズーズー弁の特徴は、濁音や促音に化けたりするからである。キはギになったりジになったりし、ギヤはギャにもジャにもなるのです。
父は、雪柳(ユキヤナギ)を「ユギヤナギ」と濁り、さらに「ユギャナギ」と短縮し、それが英樹には「ユジャナギ」と聞こえたのでしょう。この例のように、ズーズー弁では「ユキ」は「ユギ」と濁り、「ユギヤナギ」は「ユギャナギ」や「ユジャナギ」と聞こえるのです。
ズーズー弁と呼ばれる東北方言は、知らない地域の人が聞けば、日本語ではなく、外国語かと思われるかもしれません。尤もそれは昔?のことで、現在はそんなことはないでしょう。如上の次第で、「ユジャナギ」が「雪柳」のことだと知ったのは、半世紀も後のことでした。お笑いください。東北出身者の面目躍如?
<国民学校分教場>
英樹が生まれ育った集落は、上・下集落合わせて一つの学区を構成し、小学校(当時は国民学校)の分教場があった。生徒数は(正確な数字は知らないが)各学年10人には届かなかった。つまり、分教場の生徒数は40人ぐらいではなかったか。ちなみに、英樹の集落には男は英樹1人だけだったので、(前述の通り)1学年上の男性4人が「同級生扱い」してくれた。
日本が太平洋戦争を始めたのは、昭和16年(1931年)12月8日。その年4月に「国民学校令」が施行され、それまでの小学校が改組され、国民学校が発足した。具体的には、尋常小学校が国民学校初等科(修業年限6年)に、高等小学校が国民学校高等科(修業年限2年)となった。
英樹は国民学校(初等科)に入学し、国民学校分教場に通ったのである。国民学校スタートの翌年のことでした。もとより戦争開始直後であり、入学式で校長先生から「君たちは尋常小学校の生徒ではなく、国民学校の生徒だ。少国民としてお国の役に立つ人間になれ」とハッパをかけられたものだ。
<先生は二人、複式学級>
生徒数が少ないので、先生は二人(夫婦)きりで、クラス編成も1年生から3年生までと、4年生から6年生までの二学級しかなかった。授業は1時限を3等分して行われた。例えば1年生~3年生が一緒のクラスでは、まず1年生の授業が行われ、終了次第順次2年生の授業、3年生の授業が実施されたのでした。
従って、自分の学年の授業だけでなく、他学年の授業も「聴講」できた。これが楽しくして、おかげで英樹は、1年生の時は2年生、3年生の授業も「受けた」形になった。4年生の時は5年、6年生の授業(決して難しいとは思わなかった)を「受けた」のだから、勉強はどんどん捗り、知識は大いに拡大し、毎日の分教場生活は楽しくてしようがなかったのである。
<本校生徒に負けてたまるか!>
英樹は分教場生徒として肩身の狭い思いもしたが、「本校生に負けてたまるか!」との思いで、勉強はもとより運動にも励んだ。
普通に考えれば、分教場生徒は本校生徒よりも不利な面が多いはずで、上記の複式学級などが指摘されよう。複式授業は当然に、問題があり欠陥もあったのでしょうが、英樹には有利な状況として作用した。分教場のコンプレックスを上回る、逆にプライドを持つことができたのです。
<負けず嫌いとプラス思考>
分教場生活で会得した「負けず嫌いとプラス思考」、この二つは英樹の生涯にわたる土壌・財産となった。生まれ育ちが寒村で、小学校が分教場という特殊な環境が、彼の人生に影響していることは間違いない。
なお、国民学校分教場は、戦後独立して小学校と改称された。たった4年の短命に終わったが、「軍国日本」の象徴であったことは確かでしょう。この国民学校分教場に入学して学んだ英樹らも、その意味でやはり「軍国日本」の象徴だったのです。この歴史的環境が、福山秀樹の人生の土壌・骨肉となったのである。
『秀樹杉松』109巻29178号 2019.8.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #558