川越宗一『天地に燦たり』を読む。~秀吉の朝鮮出兵 /『礼記』(らいき) / 儒教の「礼」問答 /「天地ト参ナルベシ」。少し難しかったが、いい勉強になりました。
川越宗一氏の直木賞『熱源』に続き、清張賞『天地に燦たり』を読みました。浅学菲才の私には手に負えない面があるので、最初に専門家の書評を紹介します。(週間読書人ウェブ https://dokushojin.com から)
→ ① 本書は第二十五回松本清張賞を受賞した長編で、秀吉の朝鮮出兵を題材にしている。だが、この作品の特異な点は儒教の“礼”の概念受容を根底のテーマとして、島津の侍、朝鮮国の非差別民の少年、琉球国の密偵の三人の視点から描き出しているところだ。(文芸評論家 清原泰正氏)
儒学の“礼”を『礼記』などから引用して、久高、明鐘、真市、道学先生に語らせて儒学問答のようなペタンチックな(編注:学識をひけらかす)面はあるが、登場人物たちの生き方の模索と密接に結びついているために邪魔にはならない。
久高、明鐘、真市の三人の“礼”に対する思いはそれぞれに異なるものの、現代の国際情勢を考える上で貴重な考察を与えてくれる。スケールの大きな新人作家の出現に立ち会った感動があり、今後の活躍を期待したい。(同上)
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→② 戦を描く作品の主軸に、義でなく忠でもなく、礼を選んだセンスには敬服する。(松本清張賞選考委員 京極夏彦氏)
→③ 激しく心揺さぶられた。(同 三浦しをん氏)
→④ スケールの大きな新人作家の出現
(週間読書人ウェブ https://dokushojin.com)
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<編註>
礼記(らいき)= 周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、前漢の頃の戴聖が編纂したもの。全49篇。これは唐代以降、五経の一つとして尊重された。各篇独立した書物で、大学・中庸は論語・孟子と合わせて四書という。
(ウィキペディア https://ja.m.wikipedia.org)
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以上、専門家の書評をまず紹介しました。本ブログ『秀樹杉松』の「坂名シリーズ」執筆に力を割き、『天地に燦たり』を集中して読む時間を確保できなかった。そこで、ブログ一段落後にやっと読み終えました。その上でさらに、時間かけて作品を再読し、自分なりに「読み切った」実感に浸っています。
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1)まず、書名『天地に燦たり』の「燦」から、「太陽の光が燦々とふりそそぐ」「燦然と煇く」がすぐ頭に浮かんだ。そうだとしても、意味が今ひとつ理解できない。「角川漢和辞典」で調べると、→ 燦=サン あきらか=燦が音を表し、まじわる意の語源(参)からきている。火の光がまじわりかがやくこと。
「難しそうな本だな」、が率直な第一印象。
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2)最初のページ(目次)をめくったら、14の章名が並んでいる。1番目「禽獣」、4番目「天地と参なるべし」、終わりの14番目「天地に燦たり」。どうやら、「天地と参なるべし」と「天地に燦たり」は、関連していそうだとの見当がついた。(本文を読み始めて、それが確認できた)
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3)冒頭で紹介した清原氏の書評「儒教の“礼”の概念受容を根底のテーマとして」とは、このことか。どうやら、面白いだけの小説ではなさそうだが、“勉強好き”?の自分には向いているかも。
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4)本書全体には触れず、私の関心を引いた難しい箇所だけを簡単に紹介します。(文章は原文)
◉「禽獣」章
→ 幼いころ、久高が学んだ儒学では、天地万物の存在も運行も、全ては「理」により統べられると説く。/ その理により人は生来、至善だ。至善にあり続ければ人は「天地ト参ナルベシ」、天地と三つに並び立つ偉大な存在にも至り得るとまで、儒学は謂う。(p.12)
→「人ニシテ礼ナケレバ、能ク言フト雖モ亦禽獣ノ心ナラズヤ」。儒学の経典「礼記」は説く。人は、そのままでは禽や獣と変わらない。食みあい、争い合い、奪い合う。礼を尽くし他者を敬愛して、はじめて人は人となる。「礼」とは、儒学が最も重んじる博愛の心「仁」の実践。ただ人のみに可能な行い、人が人たる所以が、儒学に謂わせれば礼だ。(p.13)
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◉「天地と参なるべし」章
→ 久高「万物を統べる理が人にかくあれと命じ授けた『性』(本性)により、人は生来、至善。誠を尽くせば性が、本来の善が曇りなく現れる聖人となる。身から溢れる聖人の徳は周囲の万物の性の発現を賛(たす)け、天地すら支える。そうでしたな」「そして学び磨けば、人は誰でも聖人に至り得る。万物で唯一その可能性を持つがゆえに、人は天地ト参ナルベシ、天地と三つ巴に並ぶ偉大な存在である」(p.102)
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<編注>
1)角川漢和中辞典によると、
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参=「女が玉のかんざしをつけ、着かざって美しいさま。きらきらと美しいことを意味する。ひいてまじわることの意。また、星の名に用い、三の意味に借用する」。
実は私は、「参=三」とばかり思い、「参」に「きらきら美しい」「まじわる」の意があるとは知らなかったのです。これでやっと。「天地ト参ナルベシ」と「天地に燦たり」が、かなり理解できたのです。
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2)この際だから、学研漢和大字典も調べました。いろんな事がよくわかりました。
→
参(參)=「三つの玉のかんざしをきらめかせた女性の姿を描いた象形文字。のち、巛印(三筋の模様)を加え、参(參)の字となる。入りまじってちらちらする意を含む。三(みっつ→いくつも)ー 森(何本もの木が生えたもの)ー 杉(多くの針葉のはえたすぎ)などと同系のことば。▽証文や契約書では、改竄(かいざん)や誤解をさけるために、「三」の代わりに使うこともある」。
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3)結局、「天地と参なるべし」は、人は天地と交わるべき、仲間入りすべき(学研漢和大辞典)となります。著者の川越氏はこう書いています。
→「天地と三つに並び立つ偉大な存在にも至り得る(p.12)、「天地と三つ巴に並ぶ偉大な存在である」(p.102)。
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◉「碧蹄」章
→先生(明鍾の儒学の先生)は迷わず義兵たちと前進し、十字の旗を掲げて追撃する倭の一隊に立ちはだかった。そして戦いの中、撃たれた。……先生は目を大きく見開き、明鍾を見つめた。「学ビテ時ニ之ヲ習フ。亦説バシカラズヤ」。先生の声に、力が宿る。『論語』の冒頭。明鍾が最初に学んだ句だ。(p.191)
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◉「天地に燦たり」章
→人は天地と参なる。かつて聖賢が何を見て言ったのか、久高にもわからない。だが、たとえ天地と参なりえずとも。禽獣であろうと何であろうと。人が天地の間でつくした思いや悩みは、決して砕けず、褪せぬ煌めきを生むのではないか。天地に燦たる煌めきを。/ふと、遠い未来を久高は思う。………「そうか」久高は気付いた。「俺も、生きるのだな。これからも、この天地で」(p.348)
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『秀樹杉松』112巻2977号 2020.3.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #617