秀樹杉松

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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(2)~ ○亀ヶ岡遺跡、○宇宙人をモデルにした遮光器土偶、○三内丸山遺跡

 

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『古代みちのく101の謎』(鈴木旭)は、まさに ”面白くて為になる本”です。前回の(1)は、盛り沢山の長文になったので、これからの(2)以降は、少しコンパクトな構成にしたいと思います。書名は「みちのく」となってますが、日本古代の歴史全般に及ぶ展開ですので、一読に値する著作だと思います。

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8  縄文晩期を代表する遺跡とは? ー 亀ヶ岡遺跡

 

1)亀ヶ岡遺跡とは「太古の昔、地球を訪れた宇宙人をモデルにしたのではないか」と外国の考古学者を驚かせた「遮光器土偶が出土したところで、縄文晩期を代表する遺跡として知られる。

 遮光器土偶=縄文期時代に作られた土偶のタイプ。目にあたる部分が、イヌイットエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることからこの名がついた。

 

2)「亀が丘から出土する土偶や香炉型土器、菜食土器などは、ほとんど実用品として使用できないものばかり。しかも、なぜか非常に小さい土器が多く発掘されている。亀ヶ丘は、神々を祀った神聖な場所であり、神々の住んでいた丘ではないか」(発掘調査に当たった天間勝也氏)。

 

3)東北地方は日本海と太平洋の両岸まで広がるブナやナラは大地を肥し、さまざまな植物を生い茂らせる。それを食料とする動物の繁殖も活発になる。それだけ「山の幸」「海の幸」「里の幸」に恵まれていたのである。豊かな自然が豊かな文化を育ててくれた。亀ヶ丘文化は、その意味で東北を代表し象徴する文化だった。

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9 宇宙人をモデルにした土偶? ー 遮光器土偶

 

1)「太古の昔、地球を訪れた宇宙人をモデルにしたのではないか

遮光器土偶を見た外国の考古学者は、そう言って驚きの声をあげた。浪岡村は昔から奇妙な形の大小の水ガメなどが、たくさん出土するので、特にこの地を瓶ヶ岡と称していた。明治になっても続々出土した。

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遮光器土偶1886年(明治19年)青森県亀ヶ岡遺跡出土ウィキペディア ja.wikipedia.org

 

 

2)明治19年のこと。雷電社のある丘の木を倒したら、根元に数十個もの完全な土器、とりわけ、遮光器土偶は鈴なりになってぶらさっがっていたと伝えられる。早くから数知れない土器が出土していたのであるそれらの土器がいま、どこにいってっしまったのか。杳として知れない有様となっている。

 

3)中田宝篤氏(縄文研究会)が復元制作にチャレンジしたら、完全に復元するまで6年の歳月を費やした。驚くべきことに、「啖呵珪素による焼き戻し」という特殊な技術であり、現代のハイテクとされるセラミック工法と全く同じレベルのテクノロジ・ーであった。空中の酸素から土偶を遮断するため、普通の土器よりも硬くて、4倍も丈夫な土器が出来上がる。

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12  縄文文化の常識を覆す巨大集落以降の謎 ー 三内丸山遺跡

 

1)「縄文の底説覆す」「定住し社会を形成」「4500万年前の巨大木柱出土」「20メートル超す建造物か」「吉野ヶ里凌ぐ可能性」ー さまざまな言い方で紹介された三内丸山遺跡。それは青森市の中心部から南西へ3キロメートルの青森県総合運動公園の敷地内にある。標高20メートル。南東35キロメートルにある八甲田山から下りてクル舌状台地の北西側にある。

 

2)平成4年以来、足掛け3年にわたって実施された緊急発掘によって姿を現した遺跡の総面積は、およそ5ヘクタール、想像を絶するスケールの大きさである。それでも予想される遺跡全体の広がりから見れば、わずか8分の位置に過ぎないと言われる。一つのまとまった形で、巨大な集落を形作っていることが判明した。

 

3)弥生期になって出現する定住集落と比べて少しも遜色がないばかりか、逆に上回る部分さえ見られるということで話題になった。長径30メートルに及ぶロングハウス(大型掘立柱遺構)矢直径1メートルを超える巨木(クリ材)を使った柱の跡。それらは2000年後に出現する吉野ヶ里遺跡(弥生中期)に勝るとも劣らな。

 

4)それだけ大規模な遺跡が、縄文前期(7000年前~5000年前)から縄文中期(500年前~4000年前)にかけて、少なくとも1500年以上もの長い間、途切れることもなく継続しており、定住集落として利用されていることが明らかになった。

 

5)そうすると、「狩猟採集に明け暮れていた縄文人は獲物を追って移動っする生活を営んでいた」とか、「定住生活をするようになったのは、稲作を中心とする農業を営むようになった弥生期以後のことである」と語られてきた、古代史の常識は根本から覆されることになる。縄文文化は何だったのか。改めて考え直す時が来た、と言えないだろうか。

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写真:Atelier秀樹

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秀樹杉松』117巻3671号 2020.10.21/ hideki-sansho.hatenablog.com #711