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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(6)~  ◉東日本に縄文人の「国」があった? ◉神武天皇と長髄彦の対決は避けられなかったのか。

 

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『古代みちのく101の謎』(鈴木旭) を読む(6)~  ◉東日本に縄文人の「国」があった? ◉神武天皇長髄彦の対決 をお届けします

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『古代みちのく101の謎』著者:鈴木 旭氏(本書表紙カバーより)↑

  

73 東日本に縄文人の「国」があった? ー アラハバキ連合

 

1)安日彦(アビヒコ=安日王とも)と長髄彦ナガスネヒコ)の兄弟によって建国された「アラハバキ連合」とは、いったいどんな国だったのか。それは縄文文化を基盤として成立する国であった。

 

2)厳密に言えば、それは国と言えるものではない。国というのは、その内部に支配と非支配の関係が含まれており、支配者が被支配者を抑圧する機能をはらんでいるが、アラハバキ連合にはそういう点は見られないからである。

それは「部族連合体」と理解すべき集団であった。『東日流外三郡誌』(ツガルソトサングンシ)を読み進めていくと、安日彦、長髄彦の兄弟は、遠く津軽の地にたどり着くと複数の部族集団と連合体を結成している ー

 

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本書p.152より向かって右から安日彦王、長髄彦王、阿蘇部王、津保化王)↑

 

3)戦乱に明け暮れる中国から亡命してきた「晋」の郡公子一族の姫、秀蘭と結婚したのをきっかけに、邪馬台国(ヤマトノクニ)の残党と郡公子一族の合体・統合を成し遂げるや、続いて、津軽先住民の阿蘇部(アソベ)族津保化(ツボケ)族をも糾合して津軽を統一し、アラハバキ連合」を組織している

 

<編注>

既に本ブログ10/15号の「古代みちのく101の謎(1)」で紹介した通り、(戦前の学校教育では”逆賊の頭目”とされていた)長髄彦は、神武天皇が歴史上に登場する前の日本列島において五畿七道五十七国」からな邪馬台国の国王であった。神武天皇こそ、その国を奪い取り、占領した”渡来人の王”であった、という。

 

 

4)中国大陸の先進文化を伝える郡公子一族と、ある程度、中国大陸の先進文化を知っている邪馬台族の残党、生粋の土着縄文人である阿蘇部族、津保化族が連合したわけだから相当の混乱があったと思われるが、安日彦と長髄彦は、短時間のうちに部族間の合体・統合を成し遂げるのに成功し、奥州六郡 ー ほぼ現在の東北地方(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島各県)に割拠する多数の部族集団の統合に乗り出している。

 

5)注目されるのは、長髄彦安日彦津軽の地を巌鬼川(岩木川)を境にして内と外にわけ、それぞれ統治することにしたが、双方の子孫が後になって争うことのないように5年ごとに国を替え、内外ともに発展するように配慮している点。邪馬台国を統治していた頃の慣例に準じて、それを踏襲したのだと説明されている。二人の間に上下関係はない

 

6)その上で、奥州六郡に広がるアラハバキ連合の領土も5人の王、というよりは「頭主」という5人の指導者によって分割統治されるシステムにしている。「総頭主」と呼ばれる最高指導者を中央において、東西南北に一人ずつ「頭主」を配する仕組みである(「荒吐五王史」)。

 

7)こうした実態から見れば、天皇制国家とは全く異質な共同体であることが判る。一汁一菜と言えども部族共有とされ、5王の民の共同所有とされていたことを踏まえ、アラハバキ連合を「東日本古代社会主義連邦」とネーミングした若き日の佐治芳彦氏の思い入れも、あながち的外れではなかったのである。

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75)神武天皇長髄彦との対決は避けられなかったのか ー 弥生 vs. 縄文の構図

 

1)神武天皇長髄彦の対立は、大和朝廷倭国)対アラハバキ連合(日高見国)と言う形でエスカレートしていくようになる。それは、大和朝廷と同レベルの地方政権の対立という次元で語られるものではなく、日本列島を支配する新旧二つの文化、すなわち、渡来人によって伝えられた弥生文化と先住民の縄文文化の対立という形でスタートしたところに特徴があり、縄文時代から弥生時代に移行する過渡期を象徴する歴史的な大事件となって展開されることになる。

 

2)日本列島を二分する二つの集団、大和朝廷アラハバキ連合の間にはいったい、どんな違いがあり、何が対立点になっていたのか。簡単に整理してみると ー

 

文化の違い

 大和朝廷倭国)ー 弥生文化(鉄器文化+稲作中心の農業文化)

アラハバキ連合(日高見国)ー 縄文文化(石器+縄文農耕、半牧畜を伴う狩猟採集経済)

組織の違い

大和朝廷倭国)ー 天皇専制君主とする国家組織

アラハバキ連合(日高見国)ー 総頭主を最高指導者とする5王の共同統治による部族連合体

居住地の違い

大和朝廷倭国)ー 稲作に適した低湿地帯 → 里の民

アラハバキ連合(日高見国)ー 狩猟採集に適した山岳地帯 → 山の民

勢力圏の違い

大和朝廷倭国)ー 大和を中心とする西日本一帯

アラハバキ連合(日高見国)ー 津軽を中心とする東日本一帯

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3)こうして見れば、西日本を中心とする大和朝廷と、東日本に広がるアラハバキ連合平和的共存が可能であったように見えなくもない。居住地も勢力圏も分離しており、勢力そのまま共存することは可能であったはずである。しかし、どうしてもクロスオーバーしなければならない理由があった。

 

4)それは、稲作に必要とされる鉄器の原料となる砂鉄資源の奪取である。皮肉なことに、砂鉄の産地はことごとく縄文人のテリトリーである山岳地帯にあり、砂鉄精錬に不可欠とされる燃料(炭と薪)も山岳地帯に集中していた。どうしても縄文人のテリトリーとなっている山岳地帯に攻め入り、そこを奪い取らなければならなかった

 

5)一方、アラハバキ連合の最高指導者である長髄彦や安日彦には、大和朝廷の本拠地になってしまった大和の地は、祭神オオクニヌシを祀る先祖以来の故郷であり、どうしても奪回しなければならないという至上命令が課せられていた。津軽を中心とする奥州六郡の防衛に留まらず、はるか関東、東海の地を回復し、大和の地を奪回しなければならなかった。

 

6)双方の対立には和解の余地はなく、正面からの衝突は不可避となっていく。神武天皇長髄彦の対立という構図に凝縮された弥生日本と縄文日本の分裂状況は避けることのできない戦乱を招き、日本列島全域を巻き込んでいくことになる。それは表向きの史書には決して記録されることがなく、闇に葬り去られた史実である。

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写真:Atelier秀樹

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秀樹杉松』117巻3675号 2020.10.25/ hideki-sansho.hatenablog.com #715