秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

 自分史 Review 10)「青春の追憶  第三章  真理と自由の館 ~真理の青春~(中)

 

 

「真理が我らを自由にする」国立国会図書館法

真理と自由の館  国立国会図書館 (NDL)
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<第2節>NDL生活の追憶

 

<編集註記>

 

 ○「日本の民主化と世界平和への寄与」という、高い理想を掲げて、終戦3年後の昭和23年(1948年)に産声をあげたのが国立国会図書館(NDL)

 

 ○その10年後に、小生がNDLに入館。館名が長すぎるので、National Diet Libraryの略称「NDL」を使います。NHKやNTTなどのように周知されてほしい、との願いも込めて。

 

 ○草創期のNDLは様々な大きい課題を抱え、館を挙げて一つ一つ解決に取り組み始めた時期でした。そんな時代にNDLに飛び込んだので、最初から諸課題に立ち向かうことになった。此処こそ我が職場と選んだ「真理と自由の館(ヤカタ)」。さあ、働くぞ!

 

 ○前々回の『秀樹杉松』に続けて、15年前に執筆した「青春の追憶 真理と自由の館」の(中)をお届けします。40年近い長期間の思い出なので、3回に分けて投稿します。可能なかぎり、原文(15年前の執筆)を削除縮小しました。通覧いただければ幸いです。

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 ○長期間の「NDL生活」は楽しいことばかりではなく、悔しい思いや悲しいこともあった。陽気に仕事に打ち込んだ時期が多いが、陰気になって病気に罹ったこともあった。しかし、自分で選択した職場であったので、初心を忘れず定年まで働きました。思い出も種々雑多。その中から幾つか拾ってみました。

 

何のために働くのか

  

 ○与えられた仕事をこなすだけでなく、前向きに取り組み常に「業務改善」を心掛けました。だから、コンピュータ導入にも、前向き・積極的にに対応した。”小泉流”に言えば、小生も一介の「改革派」であった。

 

①立派なNDLを造り上げ、国会を国権の最高機関に相応しいものしたい。

②図書館サービスを改善して、日本国民の知的・文化的な要求に応えたい。

③NDLの活動を強化して、日本の図書館界全体の発展に寄与したい。

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レポート・論文の執筆

 

 ○行く先々で担当した業務、やり遂げた課題について、その都度整理して論文・レポートにまとめて発表した。仕事の改善・発展に不可欠と考えたからでした。

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人材の宝庫

 

 ○総じてNDLには、意識の高い優れた職員が結集していた。学歴も高く、「青雲の志」をもって上京した人たちが多かった。戦後に生まれた新しい役所・理想の高い図書館だけのことはあった。NDLはまさに「人材の宝庫」と言っても過言ではないでしょう。

 

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(1) 支部上野図書館」時代

 

 ○昭和23年の国立国会図書館(NDL)設置に伴い、その源流の一つである帝国図書館は「支部上野図書館」となりました。NDLに入館した小生が最初に配属されたのが、この「上野図書館」でした。

 

 ○上野図書館は、明治5年の「書籍館」に始まり、明治30年帝国図書館」に、戦後の昭和22年「国立図書館」と改称。さらに、昭和24年4月に文部省からNDLに移管されて、「国立国会図書館支部上野図書館」となりました。我が国の「知の宝庫」として、学者、作家、文化人をはじめ多くの国民に愛用されました。

 

 ○図書館・美術館・博物館などの文化施設が集中した「上野の森」での生活は、短期間ではあったが、小生にとっては忘れられない充実した働き場所でした。

 

 ○NDLのスタートが旧帝国図書館だった「支部上野図書館」、そしてゴールが国会議事堂内の「国会分館」。いずれも、戦後誕生の「国立国会図書館」の源流となった図書館。始めと締めくくりを、歴史と伝統のある部署(図書館)で働けたことは、全くの幸運であったと感謝しています。

 

”世紀の大移転”

 

 ○赤坂本館・三宅坂分室・上野図書館の三地区に分散していたNDLが、昭和36年に永田町に新築された「NDL本庁舎」へ移転統合することになりました。

 

 ○膨大な上野図書館資料の移転は大変でした。移転の準備作業として、蔵書確認のための蔵書点検梱包作業が大作業でした。搬出・搬入自体は日通が担当してくれた。新庁舎への搬入、梱包解体、新書庫への納架、事後処理などの諸作業は、いずれも大変でした。

 

 ○約半年間、移転の準備・実施・事後措置などのため休館し、真夏の8月に新庁舎への移転作業が行われました。新聞などには“世紀の大移転”と報道されました。

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(2) 閲覧部「図書課」時代

 

新庁舎の開館

 

 第1期工事が完成した新庁舎で、昭和36年(1961年)11月1日に「国立国会図書館新庁舎開館披露式」が挙行された。主催は衆参両院議長とNDL館長で、清瀬衆院議長、松野参院議長・池田総理大臣・横田最高裁長官の”三権の長”から式辞・祝辞述べられた。各界から1800人が招待された。

 

画期的な機械化

 

図書利用初め」の儀式が行われ、全面的に機械化された利用方式が公開されました。NDLのような大きな図書館は「開架式」ではなく、書庫からの「出納方式」をとっている。これまでの利用提供は全て手作業であったが、完成したNDLは全面的に機械化が取り入れられた。これは図書館の歴史上”革命的”と言ってもいい出来事でした。

 

図書館サービスの最前線

 

 永田町新庁舎へ移転統合した昭和36年閲覧部「保管貸出課」に配属されたが、2年後には「図書課」と改称。中央カウンター勤務にも就いた。「図書館の花形」で、利用者から見れば”羨望の的”。当時から”女性活躍”のNDL。我ら男性は”引き立て役”だった?

 

カウンターでの閲覧者名の連呼

 

 ○閲覧請求された図書が書庫からカンターに到着したら、請求票に書かれている氏名をマイクで呼び上げます。利用中などのため資料提供できないケースも、呼び出します。なにしろ「大図書館」ですから閲覧請求が多く、この呼出しは”大声での連呼”でした。呼び出しの役はその時の貸付担当者。

 

 ○時間で請求票受付、資料返却と交代するが、貸付担当は声が枯れることもありました。女性の美声は「鶯の鳴き声」にも似て素敵でしたが、小生などオノコどもの呼び出しは、”咆哮”?に聞こえたかも。繁忙時間などに、閲覧部長が応援に駆けつけ、自らマイク握って呼びだす風景も見られました。

 

 ○機械化が進んだ段階では、マイクでの呼び出しはなくなり、到着した入館番号が表示されるようになりました。ガンガン騒音状態だったカウンターが、打って変わって、本来の図書館らしい静粛に包まれることになったのです。

 呼び出し時代は閲覧者も30分も座ったまま待ち続けたが、到着番号が何箇所かに表示されるので、席を外すこともできるようになり、「機械化ってすごいなあ」と思いました。

 

出納不能

 

 ○閲覧請求されても、利用提供できないケースを「出納不能(書架に無し=利用中」)と総称。「”利用中”のため閲覧できません」と利用者に回答。「そうですか」と引き下がる利用者もいるが、そんな筈はないと食い下がる方もおり、カウンター勤務で一番辛いこと。応対の仕方によっては、トラブルに発展する場合もある。

 

 ○出納不能図書(利用提供できない本)は、正確には説明できないのです。以下のケースが考えられます。

⚫︎当日の来館者が「閲覧中

⚫︎貸出中」(国会等への)

⚫︎配架ミス」~所定の書架上に見当たらない。

⚫︎利用者が請求記号を間違える「請求ミス」。

 

 

処女論文の発表

 

「出納不能」の実態調査を行い、論文にまとめて発表した。目録のあり方などについての、閲覧現場の若手からの発言や問題提起は、注目されたようでした。

「図書出納をめぐるいくつかの問題~”出納不能”の実例を中心に~」(『図書館研究シリーズ』No.10:1966.2 、p.87~146)

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(3) 閲覧部「新聞雑誌課」時代

 

 閲覧部「図書課」を”卒業”し、同部「新聞雑誌課」の「新聞係長」を命ぜられて、新聞雑誌課へ異動しました(昭和42・1967年)。翌年の庁舎2期工事完了による「全館完成」に向けて、様々な課題が山積している最中でした。

新聞閲覧室の拡充

 全館完成を機会に「新聞閲覧室を拡充し、サービスを強化するための仕事に早速取り組みました。

 

蔵書点検

 新聞資料の総点検・全容把握のための蔵書点検を行った。

 

分類切り替え

 従来の「日本十進分類表(NDC)」にかわって、「国立国会図書館分類表(NDLC)」が決定施行されることになり、新聞はタイトル数も少ないので。過去に遡って全タイトルをNDLCに切り替えることになった。目録の切り替えだけでなく、古い新聞のラベルの書き換えなども行なった。

 

目録整備

 蔵書点検と分類切り替えを踏まえ、翌年予定の「新聞所蔵目録」(冊子体)の刊行準備をおこなった。

 

全館完成。開館20周年記念式典

 昭和43年11月21日に記念式典が挙行され、河野館長の挨拶、衆参両院議長、総理、最高裁長官の式辞・祝辞が述べられた。

 

NDL、本格的・全面的な活動へ

 新庁舎が全部完成し、NDLは質量共に飛躍的に発展する方向に歩み出した。国会議事堂の北側に道路を隔てて完成したNDL新庁舎。建物も立派だったが、国会のため・国民のため・日本の図書館界のため、新たな第一歩を踏み出したのでした。 

 

レポート・論文の執筆

 →「閉室期間中の諸作業 新聞の蔵書点検・新聞の分類切り替えと目録整備」

 

課員50名の大所帯

 新庁舎の全館完成に伴い、NDL職員が増員された。中でも小生が所属した「新聞雜誌課」館内最大の大所帯で、50名の正職員を擁していた。新卒の館員が多く入館し、活気にあふれた世界であった。

 

新聞目録(冊子体)の刊行

 カード目録では、もはや新時代の要求に応じられない状況となり、念願の冊子体国立国会図書館新聞所蔵目録」を刊行しました。

 

逐次刊行物利用の急増

 

 ○図書館では、普通の単行本を「図書」、新聞・雑誌・紀要などを「逐次刊行物」と呼んでいる。それまでは図書館といえば、図書(単行書)」が中心で、雑誌・新聞・紀要などの逐次刊行物(ちっかん)は付け足し的であったが、世の中が変わり、特にNDLでは逐次刊行物の受け入れと利用が急増

 

 ○こうした情勢の変化進展により、NDLは「図書中心の図書館」から、「図書+逐次刊行物の図書館」へと変貌した。いや、はっきり言えば、NDLは紀要・研究報告などの「逐次刊行物」利用者で埋め尽くされたのでした。50名以上の課員を擁する「新聞雑誌課』も人手不足・労働強化の事態も生まれたほどでした。

 

論文の執筆

 

 ○急速に増大する逐次刊行物の利用状況を調査した結果、図書を凌駕していることが判明。その実態を細かく集計整理し、論文にまとめて内外に明らかにする必要を痛感した小生は、110頁に及ぶ“大論文”にまとめました。

国立国会図書館における逐次刊行物の利用状況について」

  ~「図書館研究シリーズ」No.20 (1978.11) P.50~161

 

 ○「図書中心の時代」から、「図書・逐次刊行物の並列時代」の到来を宣言し、NDLとしては逐次刊行物の収集・管理・保管・利用提供に更なる力を傾注すべきであると強調しました。この種の研究論文は従来なかったので、「逐刊時代の幕開け宣言」は大きな波紋を呼んだようです。

 

逐次刊行物への傾倒 

 これを契機に、関心は「逐次刊行物」に傾注し、ライフワークの一つになりました。

 

新聞展示会の開催

 

○国際図書年の昭和47年10月に、過去100年間にわたって収集保存してきたNDL所蔵の新聞の中から、主なものを選び、個人研究者や関係機関からの借用資料を含めて、「新聞の歩み展示会」(略称「新聞展」)を開催しました。

 

 ○新聞係長の小生は、企画・準備・運営・展示会目録の執筆に積極的にたずさわった。この過程で、新聞に対する関心が更に高まり、専門的な知識も豊富になりました。新聞展示会目録作成のための勉強・執筆は、新聞雑誌課時代の忘れられない大きな想い出です。

 

NDLと新聞~新聞の宝庫

 

 ○仕事は“仕方なしにする”ものではない。これが小生の一貫した仕事観だ。それには、自分のやっている業務に興味をもつのが一番。NDLには、あらゆる新聞が毎日送られてくる。新聞は「読み捨てられる」ものだが、それを収集して利用に提供するだけでなく、永久保存によって「文化財の保存・蓄積」を図るのが、NDLの重要な使命となっているのです。

 

 ○明治期の新聞もNDLに来れば利用できる。古い新聞の保存は容易でないので、マイクロ化して保存。マイクロリーダーで閲覧し、拡大コピーも出きるようになった。新聞は古くなればなる程、価値が高まる資料。その当時のことを調べようとすれば、先ず新聞を見る以外になく、新聞しか頼る情報源がない場合もあるのです。

 

○全国の新聞を漏れなく収集し、保管しているのはNDLだけです。もちろん、世界の主要な新聞も揃っている。だから、明治期の新聞が見られ、全国の新聞・世界の主要紙も見られる。、、、これがNDLが「新聞の宝庫」といわれる所以なのです。

 

新聞の歴史

 

○新聞は、火事・災害・殺人・心中などの、ニュースや事件の報道目的でつくられた。今のような紙ではなく「瓦版」だった。字の読めない人には「読み売り」もした。外国事情を報じる新聞、在留外国人が発行する新聞も登場。旧幕臣らによる「政論新聞」が起こり、自由民権や国会開設などを要求した。この政治を論ずる新聞が発達し、日本における新聞発展を促した。

 

 ○こうした論調を好まない新政府(薩長閥)は、新聞条例をつくり民権派新聞への干渉、弾圧に出た。このため、政府対新聞の抗争が続き、新聞は「反権力」の傾向を強めた。

「政論新聞」は民権の旗を高く掲げたが、難しい漢字を読めない人たちもいた。これら庶民層を相手に登場したのが、「仮名読み新聞」などの大衆紙

 

 ○高尚で格調高い「政論新聞」を“大新聞”おしんぶんといい、社会的なニュースを仮名入りや絵入りで報道した大衆紙を“小新聞こしんぶんと呼んだ。しばらくの間「大新聞」と「小新聞」の共存・競争時代が続いた。しかし、政治報道にせよ社会報道にせよ、どちらも知りたい情報ではある。

 

 ○こうした事情を反映して、一つの新聞が両方の記事を載せるようになった。こうして、何でも載せる新聞、すなわち「総合新聞」が産まれた。一枚一枚を手刷りしていた新聞も、印刷術の導入で活版印刷の時代を迎え、大量印刷・大量発行が可能となり、今のような「全国紙」が誕生したのです。

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主査昇任

 約7年間務め上げた「新聞係長」から解放されて、昭和49年「主査」(課長補佐待遇)に昇格した。”中2階”みたいな専門職に当惑もしたが、若干の「息抜き」を兼ねて、新しい仕事に取り組みました。

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<編集註>

「青春の追憶」第三章 真理と自由の館」は、次回の(下)で終了します。

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』131巻3949号 2022.6.23/ hideki-sansho.hatenablog.com  No.989