秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史 Review 11)「青春の追憶  第三章  真理と自由の館 ~真理の青春~(下)【完】

 

国会議事堂 〜中央部尖塔直下の4階に「NDL国会分館」があります
...........................................................................................................................................................................................................

 

 ○資料保管・閲覧部門で図書(単行書)と逐次刊行物(雑誌・紀要・新聞etc.)を担当した小生は、昭和52年(1977年)に、逐次刊行物の収集を所掌する「収書部記録課」へ異動しました。

 

 ○以下、15年前の文章を大幅削減して、『秀樹杉松』に投稿します。なお、本号は、シリーズ「自分史 Review」の最終・完結号となります。可能な限り原文を削除しましたが、それでも長文になりました。ご通覧いただければ幸いです。

………………………………………………………………………………

 

<第2節> NDL(国立国会図書館) 生活の追憶

 

(4) 収書部「記録課」時代

 

機構改革(1978) ~「逐次刊行物部」の誕生

 

 ○NDL(国立国会図書館)における逐次刊行物の重要性に鑑み、保管利用部門と同じように、収集整理部門も「図書・逐次刊行物の二本立て」に改革すべきだと考えました。そのために、収集・整理・保管・利用までを、図書と逐次刊行物に二元化した組織機構にすべきだ、と主張しました。

 

 ○この機構改革は、保管利用部門にあっては”当然”でしたが、収集部門には反対意見も見られた。その収書部に小生が”乗り込む”形で異動したのです。異動後間もなく機構改革が本格的な検討課題となり。機構改革推進論の小生は積極的に対応したことは言うまでもありません。

 

 ○いろいろ難航もしたが、小生らの積極論が通り、昭和53年(1978年)の機構改革で、宿願の「逐次刊行物部」が誕生しました!

……………………………………………………………………

 

(5) 逐次刊行物部「外国逐次刊行物課」時代

 

業務の機械化

 ○NDLは、業務全般への機械化を模索検討中であったが、各職場にはコンピューターへの抵抗感あり、「合理化人減らし」として警戒する傾向も見られた。

 

端末機の職場導入 

 業務機械化室・電算課は機械化を推進する目的で、コンピューターを現場に配置しようとしたが、引き受ける課はなかったようだ。小生のいる外国逐次刊行物課にも話が来たので、「使ってみよう」ということにした。連日にわたって電算課と協議を重ね、洋雑誌の「製本伝票打ち出しシステム」が完成した。

 

 論文の執筆

 ○NDLにおける業務機械化の先駆けになった「製本情報の機械化」を、論文にまとめました。

コンピュータ端末記~洋逐刊のIRと製本伝票の打ち出し~」(『りんけえじ』No.56 : 1980.11)

 

 ○端末機との出会いを機に小生は、図書館の業務こそコンピュータ処理に馴染み機械化の効果が最も期待されるとの確信にいたった。逐次刊行物部にあって業務機械化に最後まで関わったが、図書館生活の充実した期間であったことは間違いない。

 

……………………………………………

 

逐次刊行物の本格的な機械化

 

業務機械化プロジェクトチーム」(小生も参加)が「逐次刊行物統合システム」を決定、機械化が加速しました。洋雑誌の機械化が”機関車”の役割を果たし、和雑誌・和図書も含む「NDL業務の機械化」が急速に進展しました。

 

論文の執筆

 ○「欧文雑誌目録とコンピュータ端末機国立国会図書館における洋雑誌の所蔵状況の分析」(『びぶろす』Vol.32No.9/1981.9 p.1~25 )

 ○「国立国会図書館における書誌情報のオンライン入力ー洋雑誌の書誌情報作成・更新システムの概要」(『びぶろす』Vol.36,No.2/1985.2 p.10~17)

……………………………………………

 

逐次刊行物の目録規則

 ○逐次刊行物部の新設を機に、『日本全国書誌-逐次刊行物-』の作成の機械化を目指した検討に入った。大がかりな「検討委員会」が設置され、部を挙げた精力的な審議が2年間展開された。小生は外国逐刊課長補佐としてメンバーに入り、中心的な役割を果たした。

 

 ○1981年8月に、やっと「逐刊目録規則」の逐刊部案ができあがり、館内の検討・調整を経て、1982年(昭和57年)7月に、待望の『国立国会図書館逐次刊行物目録規則』が公刊されたのでした!

 

 ○引き続き、適用細則の検討が始まったが、具体的な実例に基づいて活発な議論が展開された。「規則」より「細則」が実務者にとっては真剣な問題であり、“生き物”としての逐刊物の特徴が絡んでいたからである。

 

論文執筆

 

○逐刊目録規則と細則の検討は、長期間の検討を要し、審議内容も豊富で、時には激しい議論も戦わされた。実は、その議論の渦中にはいつも小生がいた。そうした経緯もあり、この目録規則についても、小生が論文をまとめることになりました。

 

 ○1979年秋に論文は完成したが、その内容は目録規則にとどまらず、「逐次刊行物序論」などを含む膨大なものになった。長年逐刊物にたずさわり、“逐刊物の専門家”と認められた小生が、精魂を傾けて書き上げた大作(110頁)であった。

国立国会図書館逐次刊行物目録規則』の解釈および適用について日本全国書誌(逐次刊行物編)の編纂に向けてー」(『図書館研究シリーズ』No.26/1986.4)p.85~195)

…………………………………………

 

病に倒れる

 

 ○この時の「無理」がたたったのか、翌1985年春に思いもかけない重病に倒れ、手術・入院加療に1ヶ月、自宅療養に1ヶ月、計2ヶ月の病休となった。

 

新館完成-機構改革(1986)逐次刊行物部(第二次)

 

 ○所蔵資料の増大、逐刊物の利用サービスの拡充などの課題に応えるべく、別館の建設が進められ、1986(昭和61年)に完成した。別館は「新館」と呼ばれ、本館(旧館)とは回廊でつながった。

 

 ○本館には「図書」の書庫と利用カウンターが、新館には逐次刊行物(逐刊=チッカン)の書庫と利用カウンターが置かれた。新館は多くの利用者で毎日賑わった。新しくて便利になったことにもよるが、NDLにおいては逐刊の利用がどんどん伸びていたからである。

 

 ○新館完成に伴う新体制に対応した組織の改編、第二の機構改革が行われた。資料や利用者の実態に会わせ、本館で「図書」の保管・利用サービスを受け持つ「図書部」と、新館で「逐刊」を担当する「逐次刊行物部」ができた。

 

 ○小生が所属していた受入収集部門の「逐次刊行物部」は「収集整理部」と合併して「収集部」と組織替えされた。従って、新館に誕生した逐次刊行物部は、いわば第二期逐次刊行物部であり、以前のものは第一期逐次刊行物部である。

 

 ○いずれにせよ、「逐次刊行物部」の名称が引き継がれ、受入・整理部門に代わり、今度は保管・利用部門が図書と逐刊に二元化されたのは有意義であった。新しくできた逐次刊行物部(第2期)は、かつて自分が働いていた「新聞雑誌課」が、「雑誌課」と「新聞課」に分離して逐次刊行物部に昇格したのであった。小生が長年係長を務めた「新聞係」は「新聞切抜係」と一緒になって「新聞課」に昇格した。

………………………………………………

 

(6) 収書部「外国資料課」

 

 ○1986(昭和61)年の新館完成に伴う機構再編により、小生が所属していた「逐次刊行物部外国資料課」は「収集整理部外国図書課」と統合して、「収書部外国資料課」となった。総括課長補佐と外国逐刊担当課長補佐として新しい任務についたが、今回の組織替えが後退であったことも見抜かれたので、「長く居るところではないな」と感じた。

 

論文執筆

逐次刊行物という呼び名について」(『びぶろす』Vol.38 1987.3 )

 

 ○「逐次刊行物」という名称は分かりにくい、別の呼び名はないものか、という声は少なくない。略称の逐刊(チッカン)も、一般の方には何のことか、チンプンカンプン。

 

 ○逐次は、もとは「次第を逐う」ということで、“順序を逐って次々に、順次”と辞書には出てくる。一つのタイトル(標題)のもとに、巻号や号数を逐って出版されるものを図書館用語で「逐次刊行物」と呼んでいるが、一般の人には馴染が薄く、図書館内でも何とかならないかという声が聞こえる。

 

 ○逐次を「遂次」「地区次」「蓄時」等と書かれたりすると、確かに幻滅を感じる。電話で何回も字の説明をしたにも拘わらず、こういう宛先で送られてくるのには正直参った。

 

 ○「定期刊行物」とも呼ばれるが、それでは不定期が含まれない。「新聞雑誌」で代表させることもあるが、これだと他のものが入らない感じになる。さりとて「順次刊行物」もおかしい。英語でSerial PublicationsとかSerialsというからといって、「連続刊行物」「続き物」も考えられるが、ピンとこない。

 

 ○ほかに適当な呼び方がないのだから、現行の「逐次刊行物」でいいのではないか、というのが小生の思考であり、それをまとめた論文が「逐次刊行物という呼び名について」です。序でに、追(逃げるのを追う)逐(逐い払う」との違いにも言及しました。

 

二回目の病気

 

 ○例の「心因」も改善されないのみか、身体がむしばまれていったようだ。昭和62年(1987年)4月1日、新しい課長を迎える日の朝、小生は自宅で発病、救急車で運ばれた。上述の「急性十二指腸潰瘍」で入院する羽目になった。

 

 ○「やはり〇〇はもう駄目なようだ」との噂が駆け抜けたそうだ。「」が再発したようだと思い込んだ人もいた由。本人も今度こそダメかと弱気になることもあったが、子供の頃から培った負けん気根性で難局を乗り切った。友人には「悪運が強い」「不死鳥のようだ」と言われた。

 

 ○今いるところは長くなったし、病後の体調も良くなく、仕事への意欲も減退。新課長もやりにくそうなでので、この際は、課長補佐の自分は何処かへ移らざるを得ないだろうと感じた。

...............................................................................

 

(7) 逐次刊行物部「雑誌課」時代

 

 ○新館完成に伴う機構改革で、「新聞雑誌課」は「雑誌課」と「新聞課」に分割され、「複写課」「索引課」も加えた4課で、新しい「逐次刊行物部」(第二期)が誕生した。逐刊部は新館を支える大所帯であり、質量共にNDLの表舞台になっていた。

 

 ○予感通り、1988年(昭和63年)に小生は「収書部外国資料課」から「逐次刊行物部雑誌課」に異動した。雑誌課は新館の中核で、36名の大所帯であった。以前は新聞が中心だったが、今回は雑誌の仕事に専念できるのは新鮮な気持ちがした。

 

 出来て間もない新館は、建物はもとより新館ゲート(利用者出入口)、雑誌カウンター、資料案内カウンター、新聞閲覧室、目録ホール、などの新しい施設は、古びた本館とは対照的に、見かけの立派さだけでなく、あらゆる面で機能的であった。閲覧者管理も機械化された。

 

 ○雑誌の利用は急増を続けており、新館はNDLの“目抜き通り”で、利用者でごった返していた。「素晴らしい新館ができた。ここで働けるのは幸せだな」と心から思った。“病は気から”という。「この新天地で、これまでの知識・経験を活かして、もう一度頑張ってみようか」という新鮮な気持ちが甦ってきた。定年まで10年を切っていた。

 

 ○雑誌課に移ってから、最初は洋雑誌中心であったが、直ぐに課全体を見る立場になった。新館の新しい業務体制、利用サービスは全般にわたって広範かつ複雑・多岐になり、執務「マニュアル」作成が急がれた。

 

 ○なお、新館における書庫内資料の出納業務は、民間に委託された。図書館の出納業務が職員の手から離れたのは初めてだと思われる。利用が増えるが人員は増やせない事情と、民間委託の流れに乗った動きであった。当初は新館だけだったが、大分後になって本館にも委託は波及した。

 

 ◉新館「入退館システム」

 

 ○NDLの機械化が驚異的に進んだ。新館での利用者管理が機械化され、雑誌の利用受付・貸付・返却と、新館ゲートの入館・退館チェックが連動して行われるようになった。画期的なシステムであったが、トラブル(障害)の発生で手作業に切り替えることもあった。

 

 ○本館と新館からなる対策委員会(委員長は小生)が設置され、「システム障害対策要綱」にまとめた。これがきっかけで小生は「入退館システム」担当となり、関係方面との連絡折衝にあたった。”手のかかるお荷物”でもあったが、その後改良が進み、今では立派なシステムに定着した。

 

 ◉「雑誌課マニュアル」の作成

 

 ○雑誌課の業務が複雑多岐になり、統一的な執務指針(マニュアル)の作成が急務となった。課内に「マニュアル作成委員会」を設置し、小生が委員長に就任。課内の各係から優秀な若手を抜擢し、完成に漕ぎ着けた。長年の図書館生活で蓄積した逐次刊行物、雑誌に関する知識と経験が大いに役に立ちました。二度の病から立ち直った小生が、新館を舞台とした「雑誌課」の活動の”脚本”を書いた思いでした。

 

…………………………………………………………………

 

(8) 「逐次刊行物部」時代(その1)

 

管理職昇任 

 ○そうこうしているうちに、平成4年(1992年)小生は「「主任司書」(管理職)に任命され「逐次刊行物部付」となった。組合委員長もやり、二度も病気にかかり”死に体”の時期もあったので、管理職昇任は諦めていましたが、、、

 

新聞切抜」の見直しと廃止

 ○最初の特命事項は「新聞切り抜き業務の見直し」でした。NDLは長年にわたって「新聞切り抜き」を作成保存し、調査・研究に大いに貢献してきたが、館中央は”不要不急”の業務と見做し、これを廃して人員を浮かしたいと考えたようです。

 

 ○新聞課の課長補佐、新聞切抜係長ら6人に委員を委嘱し、小生が委員長の「新聞機械化検討委員会」を設置。新聞切抜にかわる「新聞記事情報」の活用を図るべきの結論に達した。外部データベース(朝日新聞HIASK)の試行的導入を柱とする「外部DBの活用と新聞切抜業務の抜本的見直し」を、逐次刊行物部長に答申

 

 ○新部長が「新聞切抜廃止」の方針を打ち出し、代替措置として、調査局各課で作成している切抜のコピーを使うことになり、切抜業務は廃止された。なお、新聞記事情報DBは、だいぶ後になってから新聞閲覧室に導入された。

……………………………………………………………………… 

           .

(9)「逐次刊行物部」時代(その2)

 

 ○新聞切り抜き業務廃止の件も解決し、小生は新しい仕事に就いた。これまでの知識経験を活かして、”図書館利用者とのコミュニケーション”でした。

 

利用者の苦情処理

 

 ○図書館には、利用者からの苦情が寄せられる。投書の形が多いが、カウンターなどで苦情を申し出る人も少なくない。投書や苦情についてのNDLの対応が、必ずしも十分とはいえない面を感じていました。「利用者の苦情を一いち聞いていたら、きりがない。図書館サービスには苦情が付き物だから、最低限の対応で宜しい」と公言する人もいた。

 

 ○だが小生は、投書や苦情には謙虚に耳を傾け、サービス改善に役立てるべきだと考えた。つまり、利用者の声は“国民の声”であり、国の機関としては「利用者とのコミュニケーション」の一環として、積極的に取り組むべきとの思想でした。苦情や投書のケースを詳しく調査分析し、投書者へも連絡を取ってその時の事情の把握にもつとめました。

 

 ○当方のミスや対応のまずさについては率直にお詫びした。改善できる部分は直ぐに手を打った。しかし、予算や人員の制約から出来ないものについては、事情をよく説明して理解を得るように努力した。

 

 ○強い苦情を言い張る利用者もいたが、“話せば分かる”人たちだった。こうした「苦情処理」を通じて、NDLと利用者・国民とのコミュニケーションが進み、NDL自体も改革の努力を続ける必要を痛感したものだ。

 

利用者との対話新館の利用案内講話

 

 ○NDL内には、利用者や利用者サービスを重視しない傾向も見られた。小生は逆に「図書館利用」重視派であった。建物も大きく、本館と新館に分かれている。所蔵資料が多く、図書もあれば逐刊物もある。その他の専門資料もある。目録は多岐に別れており、検索は簡単ではない。

 

 ○「国会図書館に行けば何でもあると聞いて来館したが、いざ来てみたらサッパリ分からない」という利用者が多い。せっかく来館された利用者が、なるたけ早く容易に、来館目的が果たせるような援助・案内活動が必要だ、と小生は長い間感じてきた。今そうした任務を果たすのは、小生に与えられた恰好の仕事であると捉えた。

 

 ○NDLへの来館利用者が激増し、容易に入館できない状況が続きました。入館待ちの利用者が列をなすのは、お馴染みの図書館風景。利用者が多くこうした状況が一般的となった。小生はここに着眼し、開館時刻の数分前から、並んで待っている利用者を相手に、歓迎の挨拶と新館の利用の仕方などについて、簡単なスピーチ(講話)を行いました。

 

 ○最初は数回のつもりで始めたが、利用者が耳を傾けてくれるし、小生もやり甲斐を感じたので、この”利用案内講話”は、平成5年7月から平成6年6月までの1年間に及んだ。日数(回数)にして100日(回)を数えました。利用者に関心のありそうなこと、図書館としても必要なことをタイムリーに取り上げ、短時間に要領よく話すのは、簡単ではなかったのですが。

 

『一日一話 ~利用者との対話記録~』 

○事前にメモを準備することもあったので、このメモをもとに、100回に及んだ“利用案内講話”の中から50話を選んで『一日一話 ~利用者との対話記録~』にまとめた。対話といっても、利用者から寄せられた投書や苦情に基づいて、こちらからの説明、案内話ですが、内容的には一方的なものではなく「対話」になっていた。

……………………………………………………………………………

 

(10)「国会分館」時代-締めくくりのご奉公-

 

国会分館閲覧課長

 

○平成7年(1995年)4月に「国会分館閲覧課長」を命ぜられ、本館から南に道路一つ隔てた国会議事堂内の「国会分館」勤務となりました。

 

 ○国会議事堂の中にあるのに「国会分館」というのは、本館とは建物が違うからです。元々は衆議院図書館と参議院図書館であり、両舘をまとめて「NDL国会分館」になったので、その意味では”国会本館”と言ってもおかしくはない。

 

国会議事堂の想い出

 

 ○国会分館へ異動したので、毎朝「議事堂前」で下車して、議事堂へ登院した。NDL職員「国会職員」であるが、毎日「衛視」さんにバッジを見せ議事堂に出勤するようになって、「国会職員」を実感した。昼休みは議員さんたちと一緒に食事するなど、回廊の赤ジュータンを踏みしめて歩くのは、まるで「国会議員」になったような気分だった。

 

 ○国会分館勤務になってからは、毎日朝から晩まで国会議事堂内で仕事をすることになり、小生の生活も大きく変わった。政治学を勉強した小生としては、もっと早い時期に配属して貰いたかったと思ったものだ。ともかく、長い図書館生活の締めくくりが議事堂内図書館(国会分館)であったのは、願ってもない幸運であった。

 

 ○国会議事堂のど真ん中、尖塔の真下の4階に図書館(国会分館)はある。あたかも議事堂の中央を“占拠”したかの感じもする。ここに来て、毎日のように国会分館の「議員閲覧室」に出入りする議員に気付いた。

 

 ○連日のように国会分館でお見かけたした「K先生」。郵政民営化とJ党壊し論で首相の座を射止め、5年間にわたってK時代を築いた人物のようだ。軽く手を挙げて会釈して入館される姿は、今でも覚えている。宰相にまで上り詰めた力の源泉が「国会分館の利用」にあるなら、こんな嬉しいことはない

 

 ○反対党の大幹部で、もとM党代表・厚生大臣の「先生」もよく利用された。実力派の彼も亦、いずれの日にか宰相の座につくことが期待される。もう一人の大物は、ブルドーザーと呼ばれた元宰相の愛娘「T先生」だ。

 

 ○我われ国家公務員、国会職員は中立公平な勤務に心がけていることは、いうまでもないが、NDLを頻繁に利用・勉強される先生方が、国会や内閣において活躍するのを、実に頼もしく嬉しく思うのも事実です。

 

 ○国会がもめて、審議が深夜や休日に及ぶこともあった。バリケードが築かれ、ここが国会かとビックリしたこともある。国会分館勤務なので、深夜勤務や休日出勤もあった。廊下を歩くと、テレビの実況に出くわしたり、本館勤務では考えられない労働環境でした。

 

置き土産の「業務機械化」

 

 ○本館へは、週一回の庶務担当課長会議、「関西館」構想検討委員会、人事期には人事課へと足を運んだ。予算・人事を含む万般の問題に取り組んだが、国会分館の業務見直しと機械化の検討を重視し、定年退職までにメドをつけるべく頑張った。

 

 ○「国会分館システム」の構築に向けて、国会分館内での徹底検討はもとより、業務機械化室、会計課などとの打ち合わせで、本館にも足繁く通った。

 

 ○定年退職の最後の日(平成9年3月31日)に至ってやっと、システムの概要と開発経費を織り込んだ「予算要求書」(案)作成に漕ぎ着けた。

 

 ○定年2年位前から“閑職”に就いてノンビリする人もいるが、小生は退職ぎりぎりの日まで働きずくめであった。自分にとっては当然の帰結に思い、仕事人の勲章だと思った。

 

ラスト論文

議事堂内の図書館への期待に応えて~国会サービスの最前線・国会分館の奉仕体制と利用状況」~(『国立国会図書館月報』No.432 /1997.3)

 

 ○機械化に向けた努力を続けながら、議事堂内図書館の資料の構成や利用状況の調査を行った。国会議員・議員秘書や衆・参職員などに対するサービスを改善して、議事堂内図書館に相応しい機能・役割を果たすための活動の一環であった。

 

 ○国会分館のPRも兼ねて、これを論文にまとめて、当館『月報』に発表した。NDL生活ラストの論文となった。たったの2年間に過ぎなかったが、ある意味では小生に最も適した部署であったかも知れない。そういった思いと、現役最後の感慨をこめて執筆した。

 

……………………………………………

 

(11) 組合活動の思い出

 

 ○仕事は熱心だが組合活動にはそっぽ向く人、反対に組合活動に熱中して仕事は二の次、というタイプが多い中にあって、小生はどちらも大切(もちろん仕事が第一だが)だと考えた。

 

 ○小生はNDL職組の書記長・副委員長・委員長の三役を務めました。国会(衆院参院・NDL)の組合は、行政官庁のような「労組」ではなく「職組」でした。したがって専従役員はおらず、”回りもち”の一年交代でした。ですから、三役全部をやった小生も、合計3年間だけ”組合奉仕”でした。しかも、専従ではなく「仕事しながら」でした。

 

 ○1年交代の回りもちだったので、執行委員の選出は、話し合いで決まった。最終的には選挙になったが、事実上は信任投票でした。ところが三役はかなりの時間を取られるので、(それと責任あるポストなので)スムーズにはいかず難航することもありました。

 

 ○特に最高責任者たる「執行委員長」のなり手がいなかった。「重職で責任を伴うから」だけではなく、「委員長をやると将来管理職になれない」という風潮があったからでしょう。現に、「仕事ができ、人格円満で東大卒」で誰が見ても管理職当然と見られる人でも「組合委員長」経験者は管理職に昇任しなかった。

 

 ○うわさ話では、「図書館の組合は左がかっており、委員長をやる人は”アカ”だ、”アカ”を管理職にするのは許せん」という干渉が国会の保守派からあったからとか。そんな風潮も囁かれ、「委員長だけは勘弁してくれ」と断る人が続出、委員長候補の推薦は毎年難航を極めた。

 

 ○役員選考委員会が小生のところにやってきて、「次期委員長を引き受けてほしいこのままでは組合執行部が成り立たず、大会も開けない」と懇願された。書記長・副委員長の経験者として、自分が委員長になることで、組合が崩壊の危機から脱出できるならと考え、委員長選挙に出ることを了承し、選挙を経て「NDL職組執行委員長」に就任した。

 

 ○「いよいよ〇〇も管理職になれないか」との噂も飛び、心配してくれる友人もいた。だが、もともと「管理職」は眼中になかったし、それを目指して仕事をしていたわけではなかった。「管理職になりたいがために委員長を断る」は、自分の身の処し方ではない。

 

 ○NDL館法前文の「真理が我らを自由にする」に照らし、「真理と自由の館」に身を託そうと決断した。「管理職なんかどうでもよい。俺の原点は「立派なNDLを作り上げる」にある。そのためには、仕事を真剣に考えている組合も大切にせねば、、、。委員長引き受けを決断した

 

 ○委員長に就任した小生は、「業務の改善」「逐次刊行物部の新設」を重要課題に掲げた。「館長交渉」の席上、当館における逐次刊行物利用の急増を説明し、早急適切な施策として「逐次刊行物部の新設」を強く訴えました。やがて「逐次刊行物部」新設の大掛かりな「機構改革」が行われた。

……………………………………………………

 

(12) NDLでの仕事を終えて

 

 ○(1)から(11)までの部署を渡り歩いたが、平成9年(1997年)3月31日をもって、長かった国立国会図書館(National Diet Library=NDL)の生活に終止符を打った。

 

 ○今の時代は「転職」の時代といわれるが、小生にとってNDLは「天職」であった。冒頭で書いたように、NDL設立の使命・目的に共感して入館し、そこで定年退官まで働けたのだから、何も言うことはない。

 

 ○「永田町官僚」は小生の造語である。「国権の最高機関たる国会」を強調するための考案です。斯く名付けた小生も、その一員であった。仕事をやるだけでなく、若い頃は組合役員もやった。業務改革に情熱を注ぎ、論文もどしどし書いた。

 

 ○NDLに身を投じ、全力で仕事をした。NDL発展に、いささか貢献できたかも。退官10年後の平成19(2007)年4月29日に、思いも寄らない叙勲(瑞宝小綬章)の栄に浴した。「小生にできることは、全てやった」との爽やかな心境です。

…………………………………………………………

 

<編注>

以上をもって、11回に及んだ「自分史Review」(2007年執筆)のブログ投稿を完了します。ご愛読ありがとうございました。

~ 2022.6.25 / Atelier秀樹

 

…………………………

写真:Atelier秀樹

…………………………

『秀樹杉松』131巻3950号/2022.6.25/hideki-sansho.hatenablog.com  No.990