秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

シューマンの交響曲 第1番「春」、交響曲 第3番「ライン」

 

 

 ○大好きなシューマン交響曲第1番「春」、第3番「ライン」を何十年か前に初めて聴きました。その時の感動を拙文ではうまく表現できないので、クラシック音楽鑑賞事典』と、CDの解説文から権威ある専門家(神保璟一郎・渡辺 護)の解説を引用させていただきます。

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シューマン交響曲第一番「春」

 

 ○この交響曲は、シューマンがクララと結婚した翌年に書き下ろした大作で、1841年2月20日に完成している。シューマンは、指揮者タウバートに次のような意味の手紙を送っている。

「この交響曲を書いた時、自分の頭には春の憧れというものがあった。これをあなたの管弦楽で現してほしい。最初のトランペットは、あたかも天井から呼びかける覚醒のように響かせて欲しい。次の序章部の残りでは、あたりがすべて緑になり始め、胡蝶が舞い、すべてのものが春めいてくる――それから最後の楽章は春の別れを暗示したものである。………」

 

 ○この曲は、アドルフ・ベッドガーの詩から楽想を得、第1楽章 ー 春の訪れ。第2楽章 ー 夕暮れ。第3楽章 ー 幸福な遊び友達。第4楽章 ー 春の盛り。と、それぞれに表題を与えようとしたが、考え直してやめたという。1841年3月31日、ライプチヒメンデルスゾーン指揮の下に初演された。

 ~神保璟一郎クラシック音楽鑑賞事典』(講談社学術文庫)より

 

シューマン交響曲第1番 <春>

 

 シューマンがクララ・ヴィークと結婚した年は歌の年といわれ、数多くの歌曲の傑作が生まれたが、1842年にはまた室内楽の名作が多く作曲されている。第一交響曲はその間の1841年に作られた。

 

 シューマンはウィーンでシューベルトの第7交響曲を発見し、それに示唆されてこの曲を書いたのであろう。全曲至るところにシューベルトの第7交響曲の影響が見られる。(略)

》という題名は作曲者自身が付けたもの。春らしい悦びにあふれた曲で、各楽章に類似の動機や主題を用いることにより、統一を図っている。

 ~渡辺護ドイツ・グラモフォン NEW ベスト100 )の解説より

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シューマン 交響曲第三番「ライン」

 

 1850年40歳の作品で、ライン河の流れに沿ったデュッセルドルフ市の楽長として着任した直後に作られたものである。

 

 この時分、シューマンの病勢はかなり亢進していたらしく、これを作曲する前後は半ば精神異常の状態であったともいう。おそらくその病勢の小康を得た時分に完成されたものであろうが、歌と伝説とに恵まれたこの地方にシューマンの詩情は深い感銘を受けて、この傑作を遺すにいたったものであろう。1851年2月6日、シューマンの指揮のもとに初演された。

 ~神保璟一郎クラシック音楽鑑賞事典』(講談社学術文庫)より

 

シューマン交響曲 第3番 <ライン>

 

 シューマン1850年デュッセルドルフ市楽長の職を得て、ドレスデンからこの地に引き移った。シューマンとしてはドレスデンの楽長の地位を得たかったのが、その見込みないことを知って、デュッセルドルフからの申し込みを承諾した。

 

 この曲は彼がこのライン河畔の町に移って間もなく、作られた。総譜の完成は1850年12月9日となっていて、彼の40歳の時である。初演はシューマン指揮のもとに翌年2月9日デュッセルドルフで行われ、同月末にケルンで演奏された。

 

 デュッセルドルフの市民たちは彼の着任を歓迎し、明るいライン地方の人々の心も彼を慰めた。それはドレスデン時代の不遇な生活とは違ったものであった。この曲はシューマンのそのような幸福な時を反映している。

 ~渡辺 護(ドイツ グラモフォン NEW ベスト100 )の解説より

 

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<写真=Atelier 秀樹>

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140巻4124号2023.4.16/hideki-sansho.hatenablog.com.1164