秀樹杉松

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スクリャビン ”研究”

 

 

クラシック音楽といえば、モーツァルトベートーヴェンなど18世紀生まれが中心となる。19世紀に生まれ20世紀に活躍したスクリャビン(Scriabin=1872~1915)は、年代的に近い割にはあまり知られていない? 私はスクリャビンのCDを7枚持っているが、正直あまり聴いていませんでしたので、今回光を当ててみました。

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以下の3つの文献で ”研究”します。

 ◉クラシック音楽鑑賞事典』(講談社)「スクリャビン

 ◉『クラシック名曲ガイド』(音楽之友社)「スクリャービン

 ◉ シカゴ交響楽団CDスクリャービン 交響曲第四番《法悦の詩》」解説書

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 クラシック音楽鑑賞事典』(講談社学術文庫 1994)

  スクリャビン(アレクサンドル・ニコライエヴィッチ)

 ○1872年1月6日、モスクワに生まれた。父は法律家で、母は有名なピアニストだった。しかしスクリャビンはが生まれて間も無く母が世をさったので、彼は叔母に引き取られた。5歳の時からピアノを学び始め、サホノフのモスクワの音楽院に入学。1891年、ピアノで金メダルを受けた。

 

 ○出版業のベライエフは早くからスクリャビンの才能に目をつけ、彼の作品を終生出版する契約をするとともに、演奏会のマネジメントを引き受け、スクリャビンをベルリン、パリ、ブリュッセルアムステルダムに連れて行って演奏会を催した。しかもそのプログラムはスクリャビンの自作作品ばかりであった。

 

 ○1897年、彼はモスクワ音楽院出のピアニストと結婚し、二人でパリに演奏旅行をした。1899年から1903年までモスクワ音楽院でピアノを教授。1906年にはアメリカに渡り、カーネギーホールで演奏会を催した。そして、全米各地を歩いて大成功を収めた。

 

 ○1908年、クーセヴィツキーを知り、以来クーセヴィツキーは、スクリャビンと彼の率いる管弦楽団とともにヨーロッパ各地を楽旅した。1951年4月27日、モスクワで死んだ。

 ○彼は近代音楽の一方の旗頭として東洋神秘主義の旗を樹て、また、和声の新組織に貢献するところが少なくない。

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『クラシック名曲ガイド 』(音楽之友社 1994)  

  スクリャービン 交響曲第四番 <法悦の詩> 

 ○スクリャービンの全五冊の交響曲は、通称も含めていずれもが題名を持っているが、ことにこの第四番以降の二曲では題名の存在が重要である。それは、この二曲において、曲はもはや実質的には区別される楽章を持たず、大きな単一楽章制を採って、内容的にも詩曲あるいは交響詩とでも呼ぶべきものとなっているからである。(編註:もう一曲は「プロメテウス=交響曲第五番」)

 

 ○1905年にスクリャービンは H・ブラヴァツキー女史の<神智学>の教えに巡り合った。神智学とは「人間には神秘的霊智があって、これによって直接に神を見る」と説く信仰・思想である。(略)たちまちこの神智学のとりことなり、手帳にさまざまな哲学的な事柄や、「法悦の詩」と題した長大な詩を書きつけた。

 

 ○この詩が彼の続く管弦楽作品<法悦の詩>と、1907年の第五ピアノ・ソナタに結実した。その神秘思想とはスクリャービンの場合、音楽を、形式が整っていて日常的な感覚を喜ばせるものから、より高い場所へと引き上げ、聴き手を理想主義的な至高・至福の境地へと導こうというものである。

 

 ○曲は形式的には序奏とコーダを持つソナタ形式によっており、スクリャービン独特の「神秘和音」や、オーケストラの色彩を生かした書法によって、幻想的・神秘的・忘我的な陶酔を表し、聴き手をエクスタシー=恍惚の世界へと巻き込んでゆく。(略)スクリャービンを代表する傑作として愛聴されている。

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 シカゴ交響楽団CD 「法悦の詩 作品54(交響曲 第4番)」解説書

 ○音楽以外の哲学的思想が彼の音楽に決定的な影響を与えたのは、1905年にブラヴァツキー夫人の著書『神智学の謎を解く鍵』を読んだことと無関係ではない。これにより、精神的支柱であったニーチェの哲学を捨て、神智学的な方法で音楽をとらえるようになった。

 

 ○とはいえ無神論となって以来、ある意味では自身を「神」とみなすようになったスクリャービンは、人間霊魂の解放を一つの目標としてきたのもまた事実である。遡れば1900年に完成した交響曲第1番の第6楽章に置いた合唱「芸術讃歌」にはすでに神としての変革者という姿勢がみられる。

 

 ○そうした主張は《法悦の詩》に置いて、霊魂に関する「精神的所業」と自身が命名する思想の具現化だといってもよい。終わりなき創造行為、それは神智学でいえば次第に高められてゆく人間霊魂が物質的呪縛から解放されることを意味する。精神的所業の思想と神智学はこの点で一致したといえよう。

 

 ○この作品は、同時に長大なテキストが付随するはずだった。そして1905年6月の時点では「酒神祭の詩」という曲名になる予定だったが、そのままの進行では困難と考え、秋には一時的に作曲を停止している。その後付随するテキストは大幅に改訂、それを基に作曲を再開。最終的なタイトルが《法悦の詩》となった

 

 ○1907年5月末には友人に「私の最良の作品が完成した」と書き送っている。単一楽章によるこの作品は序章とコーダを両端にもつソナタ形式で構成され、和声機能はほとんど見られない。初演は友人のモデスト・アルトシューラーの指揮により、翌年12月10日にニューヨークで行われた。

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<写真=Atelier 秀樹>

『秀樹杉松』140巻4137号2023.5.8

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