川口松太郎=『鶴八鶴次郎・風流深川唄』で第1回直木賞受賞 / 三益愛子=川口松太郎の妻。映画「母三人」で育ての母を熱演
芥川賞と直木賞をブログ『秀樹杉松』で取り上げようと、”文学部に急遽入学” して、前々号と前号に書きました。「3号止まり」が無難でしょうから、この ”企て” は本号で終わりとします。ご愛読ありがとうございます。
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○東京市浅草区生まれ。巧みな筋立てと独自の話術で庶民感情を描いた大衆小説で、多くの読者を獲得した。
○第1回直木賞受賞者(鶴八鶴次郎・風流深川唄)で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者として知られる。
○代表作=鶴八鶴次郎、愛染かつら、新吾新十番勝負、しぐれ茶屋おりくetc.
○主な受賞歴=直木三十五賞、毎日演劇賞、菊池寛賞、吉川英治文学賞、文化功労者
○後妻は女優の三益愛子。子は俳優の川口浩(長男)、恒(次男)、厚(三男)、晶(長女)
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<編注>
川口松太郎さんの「松太郎」には、スゴイ親近感を覚えます。
○私が生まれ育った家の曽祖父ー祖父ー父の3代続けて、名前に「松」の字が入っており、祖父が「松太郎」だからです。
○本ブログ『秀樹杉松』(ひできさんしょう)の「松」はこの ”三人松” に因んで付けました。なお、「杉」は現住地「杉並区」の「杉」に由来します
○蛇足ながら、「秀樹杉松」の4字全てに「木」が入っています。山村に生まれ育ったので、木・樹が大好きです。
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○川口松太郎の妻
○戦後、母物映画で一世を風靡し、「母もの映画女優」と呼ばれた。
○主な主演=婦系図、母三人、母千鳥、瞼の母、大阪物語,etc.
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◉映画「母三人」
○出演=(生みの母)水戸光子 / (育ての母) 三益愛子 / (義理の母)入江たか子
○生みの母、育ての母、義理の母。薄明の子をめぐって聖涙とどめなき大映映画 ~BS11(bs11.jp)
○「信ずる男に捨てられて、命と頼む愛児を胸に雪の荒野に行き暮れた生みの母 ー 草深い農家に住む朴訥な妻に対して、運命の子を我が子以上に愛し抜く育ての母 ー 神ならぬ身の、知る由もなく、罪深き男と知らず結婚して、夫の隠し子を我が愛の手に育てんと苦心する義理の母」(kadokawa-pictures.jp)
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○小学生の時にこの映画を学校で観て、子供ながら深い感動を覚えました。留守番した祖母に「どんな映画だったか」と訊かれ、感動を覚えた内容を詳しく伝えたことを、今でもよく覚えています。
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◉「母三人の歌」 ~Uta-Net (sp.uta-net.com)
○「母三人」が歌にもなり、子供ながら」感慨込めて歌ったものです。たった今、湯村謙(1923-1961)の歌う「母三人の歌」(レコード)をスマホで聴きました。
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◉津村謙は「上海帰りのリル」でも有名ですが、本名は松原正。芸名の津村謙は、戦時中に発表されて一世を風靡した映画『愛染かつら』の主人公・津村浩三の「津村」と、それを演じた俳優・上原謙の「謙」を取ったもの、なそうです。
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○1961年、東京杉並区の自動車車庫にエンジンを入れたまま停めてあった乗用車の運転席で、排気ガスによる一酸化炭素中毒で昏睡状態になっているところを家族に発見され病院に搬送されたが、意識が恢復しないまま同日死去。37歳没。
○飲酒の形跡はなかった。麻雀帰りで遅くなり、家族を起こしてしまうのはではと気遣い、自家用車の中で眠ってしまった、のが事故の原因であった。(以上 ウィキペディア)
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◉「母三人の歌」の歌詞
街の夕風 つめたい夜風 / 女心に なぜ沁みる / 泣くな泣くなと いとし子胸に / 流す涙も 母なればこそ
雨に嵐に まだ降る雪に / つばさ痛むか 迷い鳥 / 知らぬ他国の 山越え野越え / 流す涙も 母なればこそ
思い諦め 去りゆく影を / 呼ぶ木霊の あの声は / 乳房抑えて あとふり向いて / 流す涙も 母なればこそ
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3838号 2021.10.23/ hideki-sansho.hatenablog.com #878
70年以上前の小学生の頃に読んで、さっぱり分からなかった 菊池寛『第二の接吻』と久米正雄『破船』
○いい歳をして ”文学部に入学” したら、なんだかリフレッシュした感じで、”入学論文” をまた書きました。よろしかったら、お読みください。
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○私の小学校 (低学年) 時代は、戦時中の田舎でした.。本好きだった私でしたが、読むものといえば教科書と新聞だけでした。教科書は繰り返し読んで、全部暗記しました。ある日偶然、父(村役場勤務)の机上にあった婦人雑誌の付録(菊池寛「第二の接吻」と久米正雄「破船」を収録)を発見、読みにかかりました。
○しかし、漢字が多い上に、当時の小学生には理解できない水準・内容だったのです。そもそも「接吻」がわからない、ふり仮名してあったので読むことはできたが。今の小学生なら「接吻」や「キス」は知っているだろうし、いざとなればスマホで調べるだろうが。
○因みに、何という小説だったか忘れましたが、登場人物の「葉子」にエフコと仮名が振ってあった。偏な名前だね!と10歳上の従兄に話したら、「それはヨウコと読むんだよ」と教えてくれました。当時の振り仮名も読めなかった小学生に、大人向けの大衆小説「第二の接吻」を読むのは、とても無理だった!
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さてこの際ですから、もう少し「第二の接吻」を調べてみました。
○Google Books(books.google.co.jp)に以下のように出てきました。
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『第二の接吻』
美しき令嬢の残酷な陰謀。翻弄される殉愛のゆくえは…「真珠夫人」をこえる菊池寛の名作
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○次のような情報にもアクセスできました。いい参考文献なので、部分引用させていただきます。
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◉『第二の接吻』あるいは『京子と倭文子』ー 恋愛映画のポリティックス(志村三代子)
~(core.ac.uk)
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○「菊池寛の『第二の接吻』は、1925年7月30日から11月14日まで、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』で連載され、「異常な好評を博した」と評されたほどの新聞小説であった。その後、12月10日に単行本が改造社から出版されている。(略)
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○『第二の接吻』は、、貴族院議員で実業家の川辺宗太郎の令嬢である京子、京子の従姉妹の山内倭文子、そして川辺家に寄宿している村川貞雄を中心とした三角関係の物語である。
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○『第二の接吻』の大反響の理由は、当代の人気作家による作品というよりも、「第二の接吻」という斬新奇抜なタイトルにあるだろう。(略)接吻という言葉は、発禁処分とまではならなかったにせよ、当時としては刺激的な言葉であったことは明らかだ。
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○『都新聞』の宣伝文句には、
「恋愛において、浄きと浄からざるとの境は、只一つの接吻に在りと称せられる。接吻すれば万事始まる」と述べられており、「接吻」がいかにこの小説の重要な要素であるかを繰り返し説かれている。実際、「第二の接吻」は、タイトル通り、「接吻」が物語の重要なカギになっている。(略」
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◉久米正雄
ウィキペディアによると、
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○代表作は、『牛乳屋の兄弟」「蛍草」『受験生の手記』『破船』
◉久米正雄の小説『破船』
新潮社1922-1923、初出『主婦の友』1922-1923。夏目筆子との失恋事件を小説化したもの。
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日本大百科全書(小学館)の「久米正雄」(p.560) には、以下のように書かれています。
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○1915年(大正4)秋、(久米正雄は)芥川龍之介と漱石山房をくぐり、その門下生となる。が、漱石没後遺児筆子に一方的恋情を懐き、それが破局に至ったことは、彼の作風に一転機をもたらすことになる。
○すなわち、『蛍草』『破船』前後篇など、自らの失恋体験を素材とした作品を次々と発表し、文名を高めていく。甘美な哀愁に包まれたその小説は、世の同情をよぶにふさわしかった。
○人気作家となった久米は、以後自ら文壇の社交家をもって任じ、通俗小説の面にも新たな活路をみいだしていった。通俗小説の代表作には『沈丁花』などがある。<関口安義>
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3837号 2021.10.22/ hideki-sansho.hatenablog.com #877
芥川龍之介と芥川賞、直木三十五と直木賞、菊池寛と菊池寛賞 〜 "文学部入学"?の試み
本ブログ『秀樹杉松』の前々号(10/16)で、『昭和文学全集11』収録の石川達三『蒼氓』(そうぼう)を取り上げました。『蒼氓』は第1回「芥川賞」(1936年上期) 受賞に輝いた名作でした。
政治学を専攻した私は、一般的には文学にはほど遠い立場でしょうが、本が好きだったことと、仕事場が(行政府ではなく)立法府に属していたことが幸いして、「文学の勉強」もそれなりにできました。ですから「全く苦手」でもなく、関心はむしろ人並みかもしれません。
さて、知らない人はいないほど有名な
芥川龍之介と芥川賞、直木三十五と直木賞、菊池寛と菊池寛賞。「文学部に入学」したつもりで、今回少し調べてみることにしました。みなさんは周知のことばかりでしょうが、私には新鮮です。卒業論文ならぬ「文学部入学論文」のつもりで。
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◉芥川龍之介 (1892~1927)
(以下、「ウィキペディア」(ja.m.wikipedia.org) 情報に拠ります。)
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1892年(明治25年)東京生まれ。1910年(明治43年)第一高等学校英文科に入学。一高への同期入学に、久米正雄、松岡譲、佐野文雄、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、土屋文明、倉田百三、澁澤秀雄、矢内原忠雄らがいた。
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東京帝国大学文化大学英文学科へ進学。在学中の1914年(大正3年)、一高同期(クラスメート)の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。
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1916年(大正5年)には第4次『新思潮』を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文化大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。
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1919年(大正8年)、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。
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1921年(大正10年)海外視察員として中国を訪れる。この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。
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当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方でバーナード・ショーへの傾倒など社会主義のよき理解者であった。1925年(大正14年)制定の治安維持法に至る法案制定課程に関して彼は、はっきりと不快感を示している。
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1926年(大正15年)、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、再び湯河原で療養。
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1927年(昭和2年)7月24日未明、『族・西方の人』を書きあげたあと、斉藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36(数え年)、満35歳没。服用した薬には異説(省略)がある。
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◉芥川龍之介 の作品
○『昭和文学全集(小学館)1』(谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風、佐藤春夫) に収録されている芥川龍之介の作品は、以下の13篇です。
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「河童」「大道寺信輔の半生」「湖南の扇」「年末の一日」「点鬼簿」「玄鶴山房」「蜃気楼」「三つのなぜ」「誘惑」「歯車」「暗中問答」「或阿呆の一生」「侏儒の言葉」
○ウィキペディア(ja.m.wikipedia.org)によれば、芥川龍之介の小説は、「ジャンル」は短編小説、「主題」は近代知識人の苦悩、「文学活動」は新現実主義で、代表作として次の8作品が列挙されています。
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「羅生門」「鼻」「戯作三昧」「地獄変」「奉教人の死」「藪の中」「河童」「歯車」
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○「みんなのランキング」(ranking.net) の、芥川の人気書籍ランキングは、以下の通り。
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1位:羅生門(小説)、2位:蜘蛛の糸、3位:河童(小説)、4位:杜子春、5位:歯車、 6位:蜜柑、7位:トロッコ(小説)、8位:藪の中(小説)、9位:鼻、10位:女体、11位:地獄変、12位:芋粥、14位:或阿呆の一生、15位:軍艦金剛航海記
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◉芥川賞
以下 ウィキペディア(ja.m.wikipedia.org)によ依ります。
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芥川龍之介賞、通称芥川賞は、芸術性を踏まえた一片の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文芸春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。
(受賞対象)
各新聞・雑誌(同人雑誌含む)に発表された純文学短編の無名もしくは新進作家
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<芥川賞受賞者>
(編注:私が知っている or 読んだことがある作家に限らせていただきます。~ 日本文学振興会 (bunshun.co.jp) による)
第1回(1935年上半期)ー石川達三「蒼氓」(そうぼう)
第4回(1936年下半期)ー石川淳「普賢」
第5回(1937年上半期)ー尾崎一雄「暢気眼鏡」他
第6回(1937年下半期)ー火野葦平「糞尿譚」
第7回(1938年上半期)ー中山義秀「厚物咲」
第21回(1949年上半期)ー由紀しげ子「本の話」
第22回(1949年下半期)ー井上靖「闘牛」
第28回(1952年下半期)ー五味康祐「喪神」
第28回(1952年下半期)ー松本清張「或『小倉日記』伝」
第31回(1954年上半期)ー吉行淳之介「驟雨」その他
第38回(1957年下半期)ー開高健「裸の王様」
第39回(1958年上半期)ー大江健三郎「飼育」
第59回(1968年上半期)ー丸谷才一「歳の残り」
第75回(1976年上半期)ー村上龍「限りなく透明に近いブルー」
第78回(1977年下半期)ー宮本輝「螢川」
第85回(1981年上半期)ー吉行理恵「小さな貴婦人」
第138回(2007年下半期)ー川上未映子「乳と卵」
第155回(2016年上半期)ー村田紗耶「コンビニ人間」
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◉芥川賞・直木賞 ~文芸春秋(bunshun.co.jp) に拠ります。
○「芥川賞」と「直木賞、この二つの賞は、「文芸春秋」を創刊した菊池寛が、亡き親友を偲ぶために作られた。
○この名称の由来となった2人の作家、芥川龍之介と直木三十五は、ともに大正から昭和にかけて活躍した流行作家でした。そして「文藝春秋」に欠かせない存在でもありました。芥川は「文藝春秋」創刊号から巻頭随筆「侏儒の言葉」を連載し、直木は創作はもとより、今でいう無署名コラム記事を数多く寄稿しています。
○創刊10周年の「文藝春秋」執筆回数番付では、並みいる文豪を従えて、「東(張出)横綱に芥川、「西の横綱」に直木の名前があがるほどでした。
○しかし、芥川が昭和2年、直木が昭和9年に他界。悲嘆に暮れる菊池寛でしたが、「文藝春秋」昭和10年1月号で、両賞の制定を宣言します。
(「芥川」「直木」賞を、いよいよ実行することにした。主旨は、亡友を記念するかたがた無名もしくは無名に近き新進作家を世に出したいためである(略)。
○後に、賞の主宰は日本文学振興会に移りますが、文藝春秋は今も運営に深く関わっています。候補作を選ぶ予備選考は、主催者から委嘱された文藝春秋の編集者が中心となって行われます。(略)
○受賞作決定は、現役作家の方々が集う選考会の結果に委ねられますが、菊池寛が(審査は絶対に公平)を明言した選考会、その司会を担うのは、芥川賞は「文藝春秋」編集長、直木賞は「オール讀物」編集長というのが、長年の伝統となっています。
○このように文藝春秋は、創業者・菊池寛の精神を受け継ぎながら85年間、時代を担う作家誕生の最前線に、常に立ちつづけているのです。
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◉直木三十五(なおきさんじゅうご、1891~1934)
○小説家。また、脚本家、映画監督でもあった。エンターティメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」は彼に由来する。
○(名前につて)
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「直木」は「植」の字を分解したもの(編注=本名が植村宗一)で、「三十五」は年齢を示したものである。31歳の時に直木三十一の筆名で「時事新報」に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに、「三十二」、「三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直樹三十三」を使っていた。
しかし「三十三」は字面が良くない。あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と改めた。それ以降は改名することはなかった。理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからだという。
また菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたからだとも言われた。
○「ジャンル」=大衆小説
○「主題」=時代小説、時局小説
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○来歴
1891年、現在の大阪市中央区に生まれ、本名は植村宗一。父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念の撮影にも参加している。
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1920年(大正9年)、里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。
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1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝家協会」を結成。映画制作にのめり込む。代表作となったのは、お由良騒動を描いた『南国太平記』である。
1934年(昭和9年)、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠。43歳没。没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞「直木賞」が創設された。
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◉直木三十五賞 (なおきさんじゅうごしょう )
直木三十五賞は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞。
(受賞者)
1(1935上)ー川口松太郎『鶴八鶴次郎・風流深川唄 』
5(1936下)ー木々高太郎『人生の阿呆』
6(1937下)ー井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』
21(1949上)ー富田常雄『面・刺青』
25(1951上)ー源氏鶏太『英語屋さん・その他』
<編注>新進作家対象の芥川賞と異なり、直木賞はベテラン作家が対象なので、私の知っている作家も多い。そこで以下、スペース節約の記載(受賞年度など省略した追い込み)に切り替えます。
なお受賞者一覧を見るにつけ、著名な作家は隈なく「直木三十五賞」を取っているんですね!じっくりご確認ください。
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柴田錬三郎『イエスの裔』、久生十蘭『鈴木主水』、藤原審爾『罪な女・その他』、立野伸之『叛乱』、有馬頼義『終身未決囚』、梅崎春生『ボロ屋の春秋』、新田次郎『強力伝』、南條範夫『灯台鬼』、今東光『お吟さま』、江崎誠致『ルソンの谷間』、山﨑豊子『花のれん』、城山三郎『総会屋錦城』、多岐川恭『落ちる』、平岩弓枝『鏨』、渡邊喜恵『馬淵川』、司馬遼太郎『梟の城』、戸板康二『團十郎切腹事件』、池波正太郎『錯乱』、黒岩重吾『背徳のメス』、寺内大吉『はぐれ絵念仏』、水上勉『雁の寺』、山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』、杉本苑子『孤愁の岸』、五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』、生島治郎『追い詰める』、野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』、早乙女貢『僑人の檻』、佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』、渡辺淳一『光と影』、豊田穣『長良川』、井上ひさし『手鎖心中』、長部日出雄『津軽世去れ節』、藤沢周平『暗殺の年輪』、藤本義一『鬼の詩』、半村良『雨やどり』、井出孫六『アトラス伝説』、三好京三『子育てごっこ』、色川武大『離婚』、津本陽『深重の海』、宮尾登美子『一弦の琴』、阿刀田高『ナポレオン狂』、田中小実昌『浪曲師朝日丸の話』、志茂田景樹『黄色い牙』、向田邦子『花の名前、かわうそ、犬小屋』、つかこうへい『蒲田行進曲』、胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』、連城三紀彦『恋文』、山口洋子『演歌の虫・老梅』、林真理子『最終便に間に合えば・京都まで』、皆川博子『恋紅』、逢坂剛『カディスの赤い星』、常盤新平『遠いアメリカ』、山田恵美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリ』、ねじめ正一『高円寺純情商店街』、古川薫『漂白者のアリア』、宮城谷昌光『夏姫春秋』、高橋克彦『緋い記憶』、高村薫『マークスの山』、北原亞以子『恋忘れ草』、大沢在昌『新宿鮫 無間人形』、小池真理子『恋』、乃南アサ『凍える牙』、篠田節子『女たちのジハード』、浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや)』、宮部みゆき『理由』、中西れい『長崎ぶらぶら節』、重松清『ビタミンF』、石田衣良『4TEENフォーティーン』、東野圭吾『容疑者Xの献身』、葉室麟『蜩ノ記(ひぐらしのき)』、安倍龍太郎『等伯』、朝井まかて『恋歌(れんか)』、門井慶喜『銀河鉄道の父』、北村薫『鷲と雪』、真藤順丈『宝島』、川越宗一『熱源』、馳星周『少年と犬』、西條奈加『心(うら)淋し川』、澤田瞳子『星落ちて、なお』、佐藤究『テスカポリトカ』
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◉菊池寛(1888~1948)
小説家、劇作家、ジャーナリスト。
ジャンル=小説、戯曲。文学活動=新現実主義。実業家としても文芸春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。
◉菊池寛代表作
◉菊池寛賞
菊池寛賞は、日本文学振興会が主催する、文芸・映画など様々な文化分野において業績をあげた個人や団体を表彰する賞。もとは菊池寛の提唱で、年配の作家の業績をたたえるためだった。46歳以上の作家が表彰対象となり、数え45歳未満は選考委員を務めた。(以上ウィキぺディア)
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3836号 2021.10.21/ hideki-sansho.hatenablog.com #876
石川達三「流れゆく日々」と「死を前にしての日記」を読む
『秀樹杉松』前号に続き、『小学館版 昭和文学全集 11』に収録の、石川達三の作品を取り上げます。前回は「蒼氓」(そうぼう)ほかの4小説に限りましたので、本号では日記の一部を紹介します。
昭和文学全集11には、尾崎一雄、丹羽文雄、石川達三、伊藤整の4作家の作品が1冊に収められています。4人の作品は精選されたものばかりでしょう。石川達三の小説と日記が併載されているのに、小説だけを取り上げ、日記を割愛したのは妥当ではなかったことに気づきました。
そこで『秀樹杉松』を1号追加して、
尾崎一雄「流れゆく日々」と「死を前にしての日記」を取り上げることにしました。
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「流れゆく日々」(1)は、昭和四十五年十月一日から四十六年六月十七日までの世の中の動静に対する感想を、日記の形式でつづったものである。硬骨漢石川達三の、面目躍如たるところを随所に表明した、興味深い読み物である。(本書p.1068)
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◉流れゆく日々 より
□(昭和四十五年)十一月十四日(土)晴、小雨」
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伊藤整没後満一年の集まり、帝国ホテルに招待を受けて参会。(略)文学は男子の一生を託するような仕事ではないと二葉亭か誰かが言っているが、そういう反省はいつも私の心の一隅に在った。昂然として答えられるだけの自信はない。
しかし三十五年の牛歩の間に、私は私なりの仕事を書きつづけてきた。よく続けられたものだと自分でも思う。
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「蒼氓」の移民問題は農村恐慌の時代を反映していた。「日蔭の村」は都市と農村との対立問題であった。「生きている兵隊」と「武漢作戦」とは戦争への批判であり、「風にそよぐ葦」は戦争と一般人民との問題であった。「望みなきに非らず」は戦後社会の在り方に対する風刺であり、(略)。「青色革命」は戦後急速に変わってきた社会のエゴイズム的な風潮を風刺したものであり、(略)
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「傷だらけの山河」は戦後ようやく繁栄を取り戻した資本主義企業の庶民に対する暴虐な一面を摘出した作品であり、「金環蝕」は独裁的な保守政治の内部的な腐敗を、事実にもとづいて告発したものであった。「人間の壁」は日本の初等教育と教育者と、そして教育行政との果てしなき矛盾の姿を、精根をかたむけて書いたものであった。(略)
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こういう風に並べて考えてみて、ああ是は一つの歴史だ、と私は思った。つまり私は私なりの見方を基調として、私の能力の限界のなかで、私なりの現代史を書いてきたのだった。他人には認められるかどうか解らないが、この三十幾年の間に、私の心が何を喜び何を悲しみ、何に対して怒り、何を肯定し何を否定したか・・・その事を一つ一つ彫り刻んできたものが即ち私の作品にほかならなかった。
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小説は男子の一生を託するに足りるか足りないか、それは解らないが、私はもう私の一生を託してしまったのだ。そしてその事に、いま悔いはない。(本書 p.752~753)
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<編注>
引用した十一月十四日の日記は、石川達三氏 65歳の時のものです。自作への解説をはじめ、30数年間の作家生活の総括的な文章に、私は心を打たれました。
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◉死を前にしての日記より
○昭和五十九年(日付なし)
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私の結婚生活はほとんど五十年になり、私も妻も幸に長命であったが、元々他人同志であった妻も良人(おっと)も、今は何だか解らない一個になっている。私はいずれ数年中に死ぬであろうが、それと同時に妻は生命力を失い、永くは生きて居られないだろうと思う。
思うに男女とは、つながって飛んで行く二匹の蜻蛉(とんぼ)のように偶然の関係であったと思うが、永いあいだにその偶然は必然となり、かけ替えの無いものとなる。(略)
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そのようにして私は八十歳を迎えた。長寿はめでたいと言う。私は別にめでたいとも思わない。ただ相当にくたびれた。そして何もかも思うようにならない。身体は衰えてラジオ体操も思うにまかせず、外出も危い。半日は寝ているような次第だ。長寿とは辛い事である。
→
ただ近づいて来た長寿の終わりが安らかであればいいと思うばかりである。それとても願望であって、願望に過ぎない。(本書p.766)
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<編注>
石川達三氏の死の前年に書かれた日誌、名文ですね。80余歳の私には心境がよく伝わります。
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◉人生最後の鬱憤ばらし
続・死を前にしての日記より
○(昭和五十九年)十一月六日(火)快晴
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吾々年代の日本人は、愛国心あるいは忠義という言葉に取り囲まれて育って来た。しかし今は是等の言葉は危なくて使いにくい。愛国心は個人個人によって悉く違う。しかしそれが多くは誤解され、好戦的な用語として使われ、或いは忠義と同様に君主にささげる心として理解されてしまう。つまり国家の為に犠牲をささげる心となり、決して人民のための愛情にはならない。(略)
→
従来の日本歴史がそもそも、忠君愛国を中心に書かれている。その歴史の中に民衆はほとんど居ない。国史をはじめから書き直す必要が有りはしないか。維新から始まって、明治、大正という皇室中心主義時代百年の歴史を根本から書き直す必要がある。しかし是は最も危険な大事業である。社会党にはとても出来そうには無い。
(本書 p.773~774)
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○(昭和五十九年)十一月二十九日(木)晴
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俳句の如きもの。(心吹く木枯らしすべてもみぢ散りぬ。)
庭の紅葉はほとんど散って、今は寒つばきの赤い花のみ。心の美という事をしきりに考えている。出来れば小さな本を書きたいと思う。心の中の美。モラルの、もう一つ奥にあるモラルだ。自分一人で喜ぶモラル。人に見せないモラル。それが有ると無いとでは人間のタチが違って来る。(本書p.778)
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○(昭和六十年)一月四日(金)曇
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ともかく年を越した。怪しげな越年で有る。めでたさも(中位で)有る。間も無く寒中になる。寒さを耐えるのがせい一杯だ。一日二枚ぐらい随想を書いている。(心の中の美)について、あまり書けそうにもない。(略)
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○(昭和六十年)一月十一日(金)晴曇
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私は死期が迫っていて、今晩死んでも当たり前だと思っている。何の感慨もない。夢の如しと人は言うが私は永かったと思う。決して夢ではなかった。そして子を育て孫を育て、やるだけの事はやったと思う。ただ人づきあいが下手で、政権に抗って、損ばかりして来たが、是は性格的なもので致し方無い。(略)
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○(昭和六十年)一月十二日(土)曇
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寒い冬だ。春が待ち遠しい。
(十九日後の三十一日、死去) (以上本書p.779)
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<編注>
石川達三(1905~1985)は、間違い無く大文豪です。1作品だけでもお読みいただくをとをお薦めいたします。
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3835号 2021.10.17/ hideki-sansho.hatenablog.com #875
昭和文学全集(小学館)11 所収 = 石川達三「蒼氓」(そうぼう。第1回芥川賞受賞作品)、「日蔭の村」、「生きている兵隊」、「神坂四郎の犯罪」を読みました。
もともとの本好きに加え「コロナ」のせいで、どうしても読書が生活の軸となっています。時あたかも岸田自民党総裁の誕生と第100代首相への就任がありました。こうした情勢を反映し、『秀樹杉松』最近10号のカテゴリーは、読書=5、政治(岸田文雄)=4、プロ野球=1となりました。
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最近は新刊の小説を読む機会が多かったので、「少し古い本格小説を読んでみようか」と思案。30年ばかり前に揃えた
「昭和文学全集」(小学館、36冊)を引っ張り出すことにしました。停年の10年くらい前でしたか、発行の都度新宿の紀伊國屋書店から職場(千代田区)に届けてもらったものです。
何せ分厚い全集なので、定年になったらゆっくり読もうと考えていたが、半分も読んでいませんでした。「さて、誰の作品を読もうかな?」と思ったら、
「石川達三」の名と『風にそよぐ葦』が真っ先に頭に浮かびました。書名が魅力的だし、映画にもなりました(薄田研二、東山千栄子、木暮美千代など大スター共演で、1951年公開)。
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さっそく『昭和文学全集』(小学館) 11(尾崎一雄・丹羽文雄・石川達三・伊藤整)を取り出した。実は、石川達三は私の大好きな作家なです。年齢は亡父と同じぐらい離れていますが、いわゆる「社会派」で問題作・話題作が多い文豪だからです。
若い世代はあまりご存知ないかもしれませんが、石川達三の小説には素敵な書名が多いです。流行語になったものもあります。(もちろん書名だけではなく、作品そのものが素晴らしい!)
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○蒼氓(そうぼう)、○生きている兵隊、○日蔭の村、○望みなきに非らず、○風にそよぐ葦、 ○悪の愉しさ、○四十八歳の抵抗、○人間の壁、○僕たちの失敗、○傷だらけの山河、○青色革命、○金環蝕 etc.
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◉石川達三のプロフィール
「芥川賞」第1回受賞が石川達三『蒼氓』(そうぼう)だということは意外と知られていないかも(実は私もこんかい改めて確認しました)。『昭和文学全集』(小学館) 11の
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石川達三(1905~85)は、明治28年、秋田県横手町(現・横手市幸町)に生まれた。十二人兄弟の三男である。石川家は源満仲を祖とする摂津源氏の流で、先祖は武士、僧侶などであり、祖父は南部藩の祐筆であった。
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大正十五年夏、既に初めての小説「寂しかったイエスの死」を岡山市の『山陽新報』に連載している。そして昭和二年、「幸福」という作品が。『大阪朝日新聞』の懸賞小説に入選している。
この年、高等学院を卒業して早稲田大学に進むつもりが、学費が続かず、諦めてフィリッピンへ渡ろうかと考えているところへ、懸賞金二百円が入ったので、早大英文科に進学した。しかしやはり学費に困り、一年で中退せざるを得なかった。
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昭和三年五月『国民時論社』に入り、電気業界誌『国民時論』の編集にたずさわった。昭和五年三月、『国民時論社』の退職金六百円でブラジル移民の一員に加わり、渡航してサン・パウロの奥地の日本人農家で一ヶ月働き、その後1ヶ月サン・パウロ市に滞在した後、結婚を口実に帰国した。
その時の体験をもとにして書いたのが、第一回芥川賞受賞作「蒼氓」である。
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「蒼氓」(そうぼう) とはむつかしい題名がついているが、これは「蒼生」「蒼民」と同じ意味で、多くの人民、万民ということである。「蒼」はあおい(草があおく繁ること)の意、「氓」は、たみ、特に流民、農民などを意味する。
作者がこの作品に「ブラジル移民」といった端的な表現を使わず、「蒼氓」というあまり耳慣れない、象徴的な題を使ったのは、草のように、踏まれても踏まれてもふえ続ける、貧しく無知な農民や移民に対する共感と愛情を込めてつけたものと思われる。含蓄に富んだ題である。
(以上、本書 p.1063~1064)
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◉戦争小説「蒼氓」(そうぼう)で、発禁処分、起訴されて有罪判決
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昭和十二年七月、日華事変が勃発した。その年の暮、石川達三のところに中央公論社の編集集者が来て、中国戦線へ特派員として従軍し、戦争小説を書いてくれないかと言った。彼は、本当に自分の目で見た戦争を書きたいと思っていたので、喜んで承認した。
十二月二十九日、東京を立ち、神戸から軍用貨物船で出港した。上海を経由して、戦火の跡も生々しい南京に着いたのは翌年一月五日であった。南京で八日、上海で四日間の取材を終えて、一月の下旬帰国した。
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筆の早い彼は、一日三十枚、三百二十枚を二月十一日に脱稿した。
それが「生きている兵隊」である。しかしこれが掲載された『中央公論』三月
号は、二月十七日に発売されたが、即日、発売禁止の通報を受けた。
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石川達三は警視庁に連行され、取調べは一日で返されたが、八月四日、「新聞紙法違反」で起訴され、二回の公判の後、九月五日、禁錮四ヶ月(執行猶予三年)の判決を受けた。その理由は、<皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍紀弛緩の状況を記述し、安寧秩序を紊乱した>というのであった。(編注=原文はカタカナ)
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◉石川達三の堂々とした法廷陳述
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作者はこの公判の時、刑事の質問に対し、臆することなく、実に堂々と次のように答えている。
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「新聞でさえも都合の良い事件は書き、真実を報道していないので、国民が暢気な気分で居ることが自分は不満でした /
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「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地には忽ちにして楽土が建設され、支那民衆も之に協力して居るが如く考えて居るが、戦争とは左様な長閑なるものでは無く、戦争と謂うものの真実を国民に知らせる事が、真に国民をして非常時を認識せしめる此の時局に対して、確固たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました
(昭和十三年八月三十一日「第一審公判調書」)」(編注=原文はカタカナ、旧仮名遣い)
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「生きている兵隊」は、『中央公論』の発売禁止処分によって、(中略)上海の『大美晩報』に「未死的兵」という題で部分的ながら翻訳掲載され、またアメリカにも伝わって、大きな反響を呼んだ。
日本では昭和二十年十二月二十日、無削除版が河出書房から刊行され、二万部を売りつくした」~ 以上本書 p,1066~1067)
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「日蔭の村」は、昭和十二年九月の『新潮』に発表された作品で、当時社会問題化した大東京の水源地候補地としての小河内村が、貯水池として水底に没するまでの悲劇を描いたもので、いわゆる社会小説というこの作者の一つの方向を見事に確立して見せた作品である。(本書p.1065)
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「神坂四郎の犯罪」は、昭和二十三年十一月から翌年二月まで『新潮』に連載された中編小説であるが、これはここに収められた他のルポルタージュ風の作品と異なり、純粋の創作である。しかし、社会世相、風俗を描いた社会派的小説ではある。(本書p.1067)
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3834号 2021.10.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #874
佐伯泰英著『照降町四季』(全4冊) を、夢中で読み切りました。
本ブログ前々号(10/6)に続き、
佐伯泰英さんの『照降町四季』(てりふりちょうのしき)を取り上げます。全4巻(初詣で・己丑の大火・梅花下駄・一夜の夢)を読了しました。小説の内容紹介は省略し、巻末の<あとがき>に注目しました。
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表紙カバーの<著者紹介>によれば、佐伯泰英さんは1942年生まれの79歳。高齢に達した?佐伯さんの心境が<あとがき>に綴られています。80α歳の私も共鳴するところがあるので、佐伯さんの<あとがき>から抜粋引用します。
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「時代小説に転じて二十一年余、文庫書き下ろしというスタイルでいくつシリーズを書いてきたろうか。ともかく冊数を稼ぐため、ただ次作のことばかりを念頭に読み直すこともなしに書き継いできた。むろんそれは食わんがための手段だ、物語の展開とか構成を考えてのことではない。その結果、シリーズが長くなった。
いちばんの長編シリーズは言わずもがな、
『居眠り磐音』五十一巻だ」(本書p.358)
佐伯泰英『居眠り磐音 江戸双紙』一覧
『居眠り磐音』第1巻「陽炎の辻」と最終第51巻「旅立ちの朝」
『居眠り磐音』18「捨雛」の表紙帯(著者の佐伯泰英さん)
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「ともかく現代物で売れない作家だった私は、時代小説に転じてひたすら長編シリーズを書き飛ばしてきた。
とはいえ来春は八十歳だ。もはやかつての体力、集中力、想像力はない。文庫書き下ろしの最盛期、「二十日で一作」と恥ずかしながら「豪語」して、一年に十六、七作を書いていた力はない」(本書p.359)
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「(略)頭のなかからいったん坂崎磐音を追い出して白紙にしたく、四巻の短い新シリーズ(編注=『照降町四季』のこと)をと考えた。女の職人が主人公の短いシリーズへの挑戦は、私にとって初めての試みと思う。書いてみて私の現在の思考力、体力に見合った四巻であったと思っている」(本書p.360)
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「あちらこちらに書き飛ばし、しゃべり散らしているが、筆者はどんな長編シリーズでも一作作品(『異風者』)でも構成を立てて書き始めることはない。冒頭の光景が浮かんだ瞬間、筆者の活動は始まり、なんとなく落ち着くところで終わる。『照降町四季』の第一巻「初詣で」の始まりが典型的だ」(本書p.360)
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「作者はそれなりに面白いというか、これまでの作風とは異なると思っているが、成果は読者諸氏が厳しく評価をお下しください」(本書p.361)。
(編注=とても面白かったですよ!)
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「令和三年(二〇二一)五月
熱海にて 佐伯泰英」 (本書p.361)
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◉手頃な4巻シリーズです。ご一読をお薦め致します。
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3833号 2021.10.11/ hideki-sansho.hatenablog.com #873
清新・本格政権への期待 ~ 岸田首相の所信表明演説
岸田文雄第100代首相の所信表明演説が、きのう(10/8)行われました。
私はテレビで視聴しただけでなく、今日の朝刊に掲載された演説全文も精読しました。演説全文を精読する人は、それほど多くはないと思いますが、、、。
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それにしても、岸田新総理の所信表明演説は、久々に見る本格的なものでした。与党の公明党山口代表のコメントが、簡にして要を得ているので、引用します。
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「力強く気迫の込った立派な演説だった。新型コロナ対応や新しい資本主義、そして外交・安全保障と3つのテーマを分析しながら、連立政権の方向性を明確に国民に示すことができたのではないか」。
(編注:これに比べて、自民党のコメントは物足りなかったように感じました)
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岸田総理の所信表明演説で、私は次の諸点に注目しました。(岸田総理の演説から部分引用)
1)<はじめに>
○このたび、私は、第100代内閣総理大臣を拝命いたしました。私は、この国難を、国民の皆さんと共に乗り越え、新しい時代を切り拓き、心豊かな日本を次の世代に引き継ぐために、全身全霊を捧げる覚悟です。
○私をはじめ、全閣僚が、様々な方と車座対話を積み重ね、その上で、国民のニーズにあった行政を進めているか点検するよう指示していきます。
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2)「新しい資本主義」の実現
○新自由主義的な政策については、富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ、といった弊害が指摘されている。
○成長を目指すことは、極めて重要であり、その実現に向けて全力で取り組みます。しかし、「分配なくして次の成長なし」。このことも、私は、強く訴えます。
○成長の果実を、しっかりと分配することで、初めて、次の成長が実現します。大切なのは、「成長と分配の好循環」です。「成長も、分配も」実現するために、あらゆる政策を総動員します。
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3) 広島出身の総理として、「核兵器ない世界を」目指す
○核軍縮・不拡散・気候変動などの課題に向け、我が国の存在感を高めていきます。
被爆地広島出身の総理大臣として、私が目指すのは、「核兵器のない世界」です。私が立ち上げた賢人会議も活用し、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、唯一の被爆国としての責務を果たします。
○これまで世界の偉大なリーダーたちが幾度となく挑戦してきた核廃絶という名の松明(たいまつ)を、私も、この手にしっかりと引き継ぎ、「核兵器のない世界」に向け、全力を尽くします。」
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4)<この国のかたち><明けない夜はない>
○このようなことわざあります。「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」
○この日本という国が、先祖代々、営々と受け継いできた、人と人とのつながりが生み出す、やさしさ、ぬくもりがもたらす社会の底力を強く感じます。まさに「この国のかたち」の原点です。
○この「国のかたち」を次の世代に引き継いでいくためにも、(略)新しい時代を切り拓いていかなければなりません。そのために、みんなで前に進んでいくためのワンチームを作り上げます。
○(略)経済を成長させ、その果実を国民全員で享受していく、明るい未来を築こうではありませんか。明けない夜はありません。国民の皆さんと共に手を取り合い、明日への一歩を踏み出します。
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5)演説内容だけでなく、演説の仕方が優れているので、「早大雄弁会出身かな」と思って今調べたら、「雄弁会には参加していない」(Wikipedia)そうです。ちなみに、早大雄弁会出身の総理には、石橋湛山、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗氏など、錚々たる面々がいます。
なるほど、「雄弁術」を超えた、「心のこもった政策を心を込めて真剣に訴える」。そんな印象を岸田演説に感得するのです。
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<編注>
「美辞麗句ばかりで具体策がない」と野党の一部が批判していますが、私には、「わかりやすく、かつ具体的で、しかも格調の高い演説」とうつりましたが、、、。
なお、念のために書き添えますが、私は自民党支持者でも公明党支持者でもありません。(ただ、どういう訳か?) 岸田文雄首相と岸田内閣には注目・期待しています。
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写真:Atelier 秀樹
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『秀樹杉松』125巻3832号 2021.10.9/ hideki-sansho.hatenablog.com #872