秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

芥川龍之介と芥川賞、直木三十五と直木賞、菊池寛と菊池寛賞 〜 "文学部入学"?の試み

 

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本ブログ『秀樹杉松』の前々号(10/16)で、『昭和文学全集11』収録の石川達三『蒼氓』(そうぼう)を取り上げました。『蒼氓』は第1回「芥川賞(1936年上期) 受賞に輝いた名作でした。

 

政治学を専攻した私は、一般的には文学にはほど遠い立場でしょうが、本が好きだったことと、仕事場が(行政府ではなく)立法府に属していたことが幸いして、「文学の勉強」もそれなりにできました。ですから「全く苦手」でもなく、関心はむしろ人並みかもしれません。

 

さて、知らない人はいないほど有名な

芥川龍之介芥川賞直木三十五直木賞菊池寛菊池寛賞「文学部に入学」したつもりで、今回少し調べてみることにしました。みなさんは周知のことばかりでしょうが、私には新鮮です。卒業論文ならぬ「文学部入学論文」のつもりで。

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芥川龍之介 (1892~1927)

 

(以下、「ウィキペディア」(ja.m.wikipedia.org) 情報に拠ります。)

1892年(明治25年)東京生まれ。1910年(明治43年第一高等学校英文科に入学。一高への同期入学に、久米正雄、松岡譲、佐野文雄、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、土屋文明倉田百三、澁澤秀雄、矢内原忠雄らがいた。

東京帝国大学文化大学英文学科へ進学。在学中の1914年(大正3年)、一高同期(クラスメート)の菊池寛久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文化大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。

1919年(大正8年)、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。

1921年(大正10年)海外視察員として中国を訪れる。この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。

当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方でバーナード・ショーへの傾倒など社会主義のよき理解者であった。1925年(大正14年)制定の治安維持法に至る法案制定課程に関して彼は、はっきりと不快感を示している。

1926年(大正15年)、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、再び湯河原で療養。

1927年(昭和2年)7月24日未明、『族・西方の人』を書きあげたあと、斉藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36(数え年)、満35歳没。服用した薬には異説(省略)がある。

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芥川龍之介 の作品

 

『昭和文学全集(小学館)1』(谷崎潤一郎芥川龍之介永井荷風佐藤春夫) に収録されている芥川龍之介の作品は、以下の13篇です。

「河童」「大道寺信輔の半生」「湖南の扇」「年末の一日」「点鬼簿」「玄鶴山房」「蜃気楼」「三つのなぜ」「誘惑」「歯車」「暗中問答」「或阿呆の一生」「侏儒の言葉

 

ウィキペディア(ja.m.wikipedia.org)によれば、芥川龍之介の小説は、「ジャンル」は短編小説、「主題」は近代知識人の苦悩、「文学活動」は新現実主義で、代表作として次の8作品が列挙されています。

羅生門」「鼻」「戯作三昧」「地獄変」「奉教人の死」「藪の中」「河童」「歯車」

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「みんなのランキング」(ranking.net) の、芥川の人気書籍ランキングは、以下の通り。

1位:羅生門(小説)、2位:蜘蛛の糸、3位:河童(小説)、4位:杜子春、5位:歯車 6位:蜜柑、7位:ロッコ(小説)、8位:藪の中(小説)、9位:、10位:女体11位:地獄変、12位:芋粥、14位:或阿呆の一生、15位:軍艦金剛航海記

 

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芥川賞 

以下 ウィキペディア(ja.m.wikipedia.org)によ依ります。

芥川龍之介賞、通称芥川賞、芸術性を踏まえた一片の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文芸春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。

受賞対象

各新聞・雑誌(同人雑誌含む)に発表された純文学短編の無名もしくは新進作家

芥川賞受賞者>

(編注:私が知っている or 読んだことがある作家に限らせていただきます。~ 日本文学振興会 (bunshun.co.jp) による)

第1回(1935年上半期)石川達三「蒼氓」(そうぼう)

第4回(1936年下半期)ー石川淳「普賢」

第5回(1937年上半期)ー尾崎一雄「暢気眼鏡」

第6回(1937年下半期)ー火野葦平「糞尿譚」

第7回(1938年上半期)ー中山義秀厚物咲」

 

第21回(1949年上半期)ー由紀しげ子「本の話」

第22回(1949年下半期)ー井上靖「闘牛」

第28回(1952年下半期)ー五味康祐「喪神」

第28回(1952年下半期)松本清張「或『小倉日記』伝」

第31回(1954年上半期)ー吉行淳之介「驟雨」その他

第34回(1955年下半期)ー石原慎太郎太陽の季節

第38回(1957年下半期)ー開高健「裸の王様」

第39回(1958年上半期)ー大江健三郎「飼育」

第59回(1968年上半期)ー丸谷才一「歳の残り」

第75回(1976年上半期)ー村上龍限りなく透明に近いブルー

第77回(1977年上半期)ー池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ

第78回(1977年下半期)ー宮本輝「螢川」

第85回(1981年上半期)ー吉行理恵「小さな貴婦人」

第98回(1987年下半期)ー池澤夏樹スティル・ライフ

第138回(2007年下半期)ー川上未映子「乳と卵」

第155回(2016年上半期)ー村田紗耶コンビニ人間

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芥川賞直木賞 ~文芸春秋(bunshun.co.jp) に拠ります。

 

○「芥川賞」と「直木賞、この二つの賞は、文芸春秋」を創刊した菊池寛が、亡き親友を偲ぶために作られた

 

○この名称の由来となった2人の作家、芥川龍之介直木三十五は、ともに大正から昭和にかけて活躍した流行作家でした。そして文藝春秋」に欠かせない存在でもありました。芥川は「文藝春秋」創刊号から巻頭随筆「侏儒の言葉」を連載し、直木は創作はもとより、今でいう無署名コラム記事を数多く寄稿しています。

 

○創刊10周年の「文藝春秋」執筆回数番付では、並みいる文豪を従えて、「東(張出)横綱に芥川、「西の横綱」に直木の名前があがるほどでした。

 

○しかし、芥川が昭和2年、直木が昭和9年に他界。悲嘆に暮れる菊池寛でしたが、「文藝春秋」昭和10年1月号で、両賞の制定を宣言します。

 

(「芥川」「直木」賞を、いよいよ実行することにした。主旨は、亡友を記念するかたがた無名もしくは無名に近き新進作家を世に出したいためである(略)。

 

○後に、賞の主宰は日本文学振興会に移りますが、文藝春秋は今も運営に深く関わっています。候補作を選ぶ予備選考は、主催者から委嘱された文藝春秋の編集者が中心となって行われます。(略)

 

受賞作決定は、現役作家の方々が集う選考会の結果に委ねられますが、菊池寛が(審査は絶対に公平)を明言した選考会、その司会を担うのは、芥川賞「文藝春秋」編集長、直木賞は「オール讀物」編集長というのが、長年の伝統となっています。

 

○このように文藝春秋創業者・菊池寛の精神を受け継ぎながら85年間、時代を担う作家誕生の最前線に、常に立ちつづけているのです。

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直木三十五(なおきさんじゅうご、1891~1934)

 

○小説家。また、脚本家、映画監督でもあった。エンターティメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞は彼に由来する。

 

(名前につて)

「直木」「植」の字を分解したもの(編注=本名が植村宗一で、「三十五」は年齢を示したものである。31歳の時に直木三十一の筆名で「時事新報」に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに、「三十二」、「三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直樹三十三」を使っていた。

 

しかし「三十三」は字面が良くない。あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と改めた。それ以降は改名することはなかった。理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからだという。

 

また菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたからだとも言われた。

 

ジャンル」=大衆小説

「主題」=時代小説、時局小説

代表作「合戦」「南国太平記」「楠木正成

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来歴

1891年、現在の大阪市中央区に生まれ、本名は植村宗一。父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念の撮影にも参加している。

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1920年大正9年)、里見弴、久米正雄吉井勇田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。

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1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝家協会」を結成。映画制作にのめり込む。代表作となったのは、お由良騒動を描いた『南国太平記』である。

 

1934年(昭和9年)、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠。43歳没。没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞直木賞が創設された。

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直木三十五賞 (なおきさんじゅうごしょう )

直木三十五賞は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞

(受賞者)

1(1935上)ー川口松太郎『鶴八鶴次郎・風流深川唄 』

3(1936上)ー海音寺潮五郎天正女合戦・武道傳來記』

5(1936下)ー木々高太郎『人生の阿呆』

6(1937下)ー井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』

12(1940下)ー村上元三上総風土記・その他』

13(1941上)ー木村荘十雲南守備兵』

21(1949上)ー富田常雄『面・刺青』

23(1950上)ー今日出海天皇の帽子』

24(1950下)ー檀一雄『真説石川五右衛門長恨歌

25(1951上)ー源氏鶏太『英語屋さん・その他』

 

<編注>新進作家対象の芥川賞と異なり、直木賞はベテラン作家が対象なので、私の知っている作家も多い。そこで以下、スペース節約の記載(受賞年度など省略した追い込み)に切り替えます。

なお受賞者一覧を見るにつけ、著名な作家は隈なく「直木三十五賞」を取っているんですね!じっくりご確認ください。

柴田錬三郎『イエスの裔』、久生十蘭『鈴木主水』、藤原審爾『罪な女・その他』、立野伸之『叛乱』、有馬頼義『終身未決囚』、梅崎春生『ボロ屋の春秋』、新田次郎『強力伝』、南條範夫灯台鬼』、今東光お吟さま』、江崎誠致『ルソンの谷間』、山﨑豊子『花のれん』、城山三郎『総会屋錦城』、多岐川恭『落ちる』、平岩弓枝『鏨』、渡邊喜恵馬淵川』、司馬遼太郎梟の城』、戸板康二團十郎切腹事件』、池波正太郎『錯乱』、黒岩重吾『背徳のメス』、寺内大吉『はぐれ絵念仏』、水上勉『雁の寺』、山口瞳江分利満氏の優雅な生活』、杉本苑子『孤愁の岸』、五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』、生島治郎『追い詰める』、野坂昭如アメリカひじき・火垂るの墓』、早乙女貢『僑人の檻』、佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』、渡辺淳一『光と影』、豊田穣長良川』、井上ひさし『手鎖心中』、長部日出雄津軽世去れ節』、藤沢周平『暗殺の年輪』、藤本義一『鬼の詩』、半村良『雨やどり』、井出孫六『アトラス伝説』三好京三『子育てごっこ』、色川武大『離婚』、津本陽深重の海』、宮尾登美子『一弦の琴』、阿刀田高『ナポレオン狂』、田中小実昌浪曲師朝日丸の話』、志茂田景樹『黄色い牙』、向田邦子『花の名前、かわうそ、犬小屋』、つかこうへい蒲田行進曲』、胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』、連城三紀彦『恋文』、山口洋子演歌の虫・老梅』林真理子『最終便に間に合えば・京都まで』、皆川博子『恋紅』、逢坂剛カディスの赤い星』、常盤新平『遠いアメリカ』、山田恵美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリ』、ねじめ正一高円寺純情商店街』、古川薫『漂白者のアリア』、宮城谷昌光『夏姫春秋』、高橋克彦緋い記憶高村薫マークスの山』、北原亞以子『恋忘れ草』、大沢在昌新宿鮫 無間人形』、小池真理子『恋』、乃南アサ凍える牙』、篠田節子『女たちのジハード』、浅田次郎鉄道員(ぽっぽや)』、宮部みゆき『理由』、中西れい長崎ぶらぶら節』、重松清『ビタミンF』、石田衣良『4TEENフォーティーン』、東野圭吾容疑者Xの献身』、葉室麟蜩ノ記ひぐらしのき)』、安倍龍太郎等伯』、朝井まかて『恋歌(れんか)』、門井慶喜銀河鉄道の父』、北村薫『鷲と雪』、真藤順丈『宝島』、川越宗一『熱源』、馳星周『少年と犬』、西條奈加『心(うら)淋し川』、澤田瞳子『星落ちて、なお』、佐藤究『テスカポリトカ』

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菊池寛(1888~1948)

小説家、劇作家、ジャーナリスト。

ジャンル=小説、戯曲。文学活動=新現実主義。実業家としても文芸春秋社を興し、芥川賞直木賞菊池寛賞の創設に携わった

 

菊池寛代表作

父帰る』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』『真珠夫人

 

菊池寛賞

菊池寛賞は、日本文学振興会が主催する、文芸・映画など様々な文化分野において業績をあげた個人や団体を表彰する賞。もとは菊池寛の提唱で、年配の作家の業績をたたえるためだった。46歳以上の作家が表彰対象となり、数え45歳未満は選考委員を務めた。(以上ウィキぺディア)

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写真:Atelier 秀樹

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『秀樹杉松』125巻3836号 2021.10.21/ hideki-sansho.hatenablog.com #876