秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

旧暦12月12日に「善福寺川」を歩く~ 善福寺川二十景

 

 ○きのう1月12日に神田川歩きました今日は善福寺川を歩きました。私宅は神田川善福寺川の中間にあるので、善福寺川の「福」と神田川の「田」に因んで、「福田川」と勝手に呼んでいます。いわば”わが庭”のような存在で、恵まれた環境を満喫しています。

 

 ○カレンダー見たら、きょう1月13日は旧暦の12月12日です。そこで、きのうの「三隣亡の日に神田川を歩く」に関連付けて、今日の歩きを「旧暦12月12日に善福寺川を歩く」とします。意味は全然なく、単に数字の12が二つ並んでいるに過ぎません。

 

 ○今日はきのうより少し長く歩いたので、20枚の写真を掲載し,

善福寺川二十景」としました。どうぞご覧ください

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4057号 2023.1.13/hideki-sansho.hatenablog.com #1097

 

 

 

”三隣亡”の日に、神田川を歩く。

 

 

 ○このところ街中を歩いていたが、久しぶりに神田川を歩いてきました。出かける前に暦をチラッと見たら、今日は「三隣亡」となっている。「三隣亡はいいお日柄ではなかったな」と、歩きながらスマホ検索しました。

 

 ○私はもちろん「日柄」(六曜=大安、赤口、先勝、友引、先負、仏滅)を気にはしないが、大安仏滅には人並みに注意しています。それ以外は、全く無頓着。

 

 ○写真を撮ってきたので、「三隣亡の日の神田川十六景」と題して、ブログに書くことにしました。わずか「十六景」なので、早速公開します。特別の風景があるはずもなく、平凡そのものの写真で、ご近所の方なら日頃見慣れている光景に過ぎないでしょう。

 

神田川十六景>

 

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三隣亡(さんりんぼう)~ウィキペディア

 

 ○選日(せんじつ)

選日とは、歴注上において、干支の組み合わせによってその日の吉凶を占うものであり、六曜・七曜・十二直(中段)・二十八宿・九星・歴注下段以外のものの総称である。撰日・雑注。

 

 ○三隣亡 (さんりんぼう)とは選日の一つ。

 三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかは判明していないが、江戸時代に入ってから確立されたとの説が有力とされている。

 

 ○三輪亡は江戸時代よりも前に古い暦注解説書には書かれてはおらず、江戸時代になってから見られるようになっている。

 

 ○江戸時代の本には「三隣」と書かれ、「屋立てよし」「蔵立てよし」と記されており、現在とは正反対の吉日だったことになる。これがある年に、暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違い、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあしと伝わってしまったのではないかとされているが、真偽は不明である。

 

 後に三隣」が凶日では都合が悪いということで、同音の「三隣に書き改められた経緯がある。三隣亡は少し前までは建築関係者の大凶日とされ、棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日とされた。その字面からこの日に建築事を行うと三軒隣まで亡ぼすとされたためである。

 

 現在でも棟上げなど建築に関することの凶日とされされ、建築関係の行為は避けられることが少なくない。「高いところへ登るとけがをする」と書いてある暦もある。

 新潟県群馬県の一部では、三輪亡の日に土産物をもらった者は没落し、送った方は成金になるという言い伝えがあるので、三隣亡の日に贈り物を贈ることは避けるのが風習となっている。

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4056号 2023.1.12 hideki-sansho.hatenablog.com #1096

《第一部》ロシアの作曲家 (No.4) グラズノフ (1865~1936) / 《第二部》ロシア民謡「ステンカ・ラージン」

 

《第一部》グラズノフ

○これまで、ロシアの作曲家3人をとり上げました。

ドヴォルザーク(1841~1904)

チャイコフスキー(1840~1893)

ムソルグスキー(1839~1881)

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今回は4人目として、

グラズノフ(1865~1936)を取り上げます。

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 ○グラズノフは、リムスキー=コルサコフに個人指導を受け、ロシア国民楽派およびチャイコフスキーの次の世代として、両派の要素を統一し、ロシア-アカデミズムといわれる近代ロシア音楽出現前の正統派の音楽を確立した。

 

 ○作品はオペラ以外のあらゆる分野にわたり、特に管弦楽作品にすぐれたものが多い。ソヴィエト政権下でレニングラード音楽院院長を務めたが、1928年よりパリに移住。

   ~以上『クラシック音楽作品名辞典』(三省堂1994)より

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クラシック音楽ファンの私は、1000枚以上のCDを持ってますが、その中からグラズノフの著作を取り出しました。

交響曲第1番「スラヴ」・交響曲第4番

交響曲第2番交響曲第7番「田園」

交響詩ステンカ・ラージン・他

バレエ音楽「四季」

バレエ音楽「ライモンダ」(2CD)(管弦楽曲全集第1集)

○付随音楽ユダヤの王」(管弦楽曲全集第3集)

ヴァイオリン協奏曲グラズノフドヴォルザーク「ヴァイオリン協奏曲集」のうち)

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《第二部》ロシア民謡「ステンカ・ラージン」

 

 ○学生時代、ロシア民謡「ステンカ・ラージン」を思い切り歌ったものです。当時の学生たちの憧れは「ロシア」であり、ロシア民謡でした。

♪『ステンカ・ラージン

 ~与田凖一訳詩・ロシア民謡

 

久遠に轟く

ボルガの流れ

目にこそ映えゆく

ステンカ:ラージンの船

 

ペルシアの姫なり

燃えたる唇と

うつつに華やぐ

うたげか 流る

 

ドンコサックのむれに

今湧くそしり

奢れる姫なり

飢ゆるはわれら

 

その昔かえらず

ボルガの流れ

醒めしやステンカ・ラージン

眉根ぞかなし

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ステンカ=ラージン ~ 世界史の窓(y.history.net)

 

ステンカ=ラージンは、ロシア民族の英雄であり、民謡「ステンカラージン」は広く歌われている。作曲家グラズノフ交響詩「ステンカラージン」を作曲した。

 

 ○1670年、ロシアのドン=コサックが起こした農民反乱。17世紀の危機の一つの現れであった。

 ○1670年、ロシアのロマノフ朝に起こった農民反乱を指導したドン=コサックの首領。

 

コサックの指導した農民反乱

 ○コサックはロシアのモスクワ大国時代、農奴制が強化されて、農奴への収奪が激しくなったとき、自由を求めて南ロシアの草原地帯に逃れ、半農耕・半遊牧の生活を送るようになった人々をいう。

 

 ○ドン=コサックとは、南ロシアのドン川流域で活動していた自治的な戦士集団であり、たびたび黒海沿岸やカスビ海沿岸に遠征し、略奪行為を繰り返していた。

 ラージンの率いるドン=コサックは、ヴォルガ川の中下流域でロシアから独立を目指して反乱を起こし、アストハンを拠点としてロシア帝国に抵抗した。

 

 ○ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、トルコなどからの国境整備などに利用していたが、ラージンの反乱に対しては弾圧に転じた。ステンカラージンは捕らえられ、翌年モスクワの赤の広場で、四つ裂きの刑で殺され、反乱後全てのコサックはツァーリへの忠誠を誓わされ、その自治権は大幅に奪われた。

 

 ○ステンカラージンの記憶は民衆の中に長く記憶され、約百年後の1773年に起こった農民反乱・プガチョフの反乱につながっている。

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ロシア民謡「ステンカラージン」

 ステンカラージンはロシア民族の英雄であり、民謡「ステンカラージン」は広く歌われている。作曲家グラズノフ交響曲ステンカラージンを作曲している。ロシア民謡ステンカラージンは、日本でもよく知られている。

 

スチェパン・ラージン

 ○スチェバン・チモフェエヴィチ・ラージンは、コサックのアタマンで、モスクワ、ロシア南部において貴族とツアーリの官僚機構に対する大掛かりな抵抗運動を指揮した。

アタマン、アタマーンは、コサック共同体で選出される指導者の称号

日本でもいわゆるロシア民謡である『ステンカ・ラージン』と共に名高い。

 

 ○しばしばステンカラージンとも呼ばれるが、「ステンカ/ステニカ」は「ステパン/スチェパン」の縮小形の一つで、愛称・卑称として用いられる。(ウィキペディア

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4055号 2023.1.11 hideki-sansho.hatenablog.com #1095

本誌『秀樹杉松』は、19年前に『Atelier秀樹ノート』としてスタートしました。



 ○『Atelier秀樹ノート』の創刊は、今から18年半前の2013年7月18日でした。この日に「喜寿」を迎えたので、喜寿記念創刊号”となります。

 ○それから19年経とうとしていますが、途中2回ぐらい改題した現在の『秀樹杉松』は、」通算4054号になっています。よくもまあ書くことがあり、書き続けたものですね!

 

 ○長期間書き続けたので、「この辺で擱筆しようかな」との思いがおこり、創刊当時の現物を取り出してみました。『Atelier秀樹ノート』のNo.1~No.490(2013.7.18〜2014.4.11)を取り出して、写真に撮ったら、懐かしい思い出がパッと広がりました。

 

 ○「いよいよ書くのをやめようか」、と、「いや、まだ書きたいこと一杯ある」、、、、。

 

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4054号 2023.1.10 hideki-sansho.hatenablog.com #1094

作曲家「ムソルグスキー」(1839~1881)”研究”

 ○有名な作曲家の名前を覚えるため、そして忘れないために、私は作曲家の生まれた年を利用しています。

 ○例えば、ヴィヴァルディ(1678~1741)は、ヴァイオリン協奏曲「和声と創意の試み」第1集 =「四季」に因んで、生年の1678年を「四季、色んな花(1678)が咲く」と覚えているので、絶対忘れません。

 ○これに倣って、

ムソルグスキー(1839~1881)は、「ムソルグスキー」というロシア語特有の難しい名前を逆用し、生まれ年の「1839」の末尾「39」を使い、「ム39ルシイ」=「むさ苦しい」、と覚えているので忘れることはないです。

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ムソルグスキー(1839~1881)Google 

 ○ロシアの作家で、ロシア五人組の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や風刺歌曲を書いた。

 

 ○国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドウノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲展覧会の絵などが代表作とされる。

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ムソルグスキー(1839~1881 ロシア)~教育芸術社

 ○19世紀後半のロシアは、自分たちの「国民音楽」を作ることを目指す作曲家たちが現れた。彼らはやがて、ロシア五人組と呼ばれるようになるが、その一人がムソルグスキー

 

 ○ロシアの地主の家に生まれた彼は、母からピアノを習いながら、音楽の才能を現した。士官学校を出て、軍人としての生活を始めたものの、そのころに出会ったボロディン、キュイ、バラキレフらから刺激を受けて、作曲に専念するようにななった。

 

 ○その後、交通省で働きながら、オペラ「ボリス・ゴドウノフ」やピアノ組曲展覧会の絵などの作品を生み出していった。しかし、孤独感に苦しみ、やがて破滅的な生活へと踏み込んでいった彼は、42歳をむかえてまもなく、病によってこの世を去った。

 

 ○ムソルグスキーは多くの作品を未完成のまま残しているが、彼の独自の音楽は、のちの世代の作曲家に大きな影響を与えている。

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ムソルグスキー ~( )

 ○ロシア国民楽派の5人組の一人。はじめ軍人であったが、2年ほどで辞め、パラキレフを中心としたグループ(5人組)に加わり、国民主義音楽の創造に積極的に取り組んだ。フランス近代音楽にも多大な影響を残す。

 

展覧会の絵

前年に死んだ友人の画家ハルトマンの追悼展覧会が1874年に催され、その時の印象をもとに作曲。ラヴェルによる管弦楽編曲が有名。

 

「禿山の一夜」

リムスキー=コルサコフムソルグスキーの死後、その意図を活かして、「禿山の聖ヨハネ祭の夜」の最終稿と思われる歌劇「ソロチンスクの市」の中の「若者の夢」およびその前の原稿である合作オペラ-バレエ「ムラダ」の中の合唱・管弦楽曲に編曲した。交響詩と呼ぶことがある。

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4053号 2023.1.9 hideki-sansho.hatenablog.com #1093

雌伏(しふく)と 雄飛(ゆうひ)

前号(きのう)で少し触れた、 雌伏 (シフク) 雄飛 (ユウヒ)について、敷衍(ふえん)します。

男女共同参画社会」のこんにち、セクハラという言葉・文字が氾濫している。しかしここで取り上げるのは「男女の問題」ではなく、単純に「雌伏・雄飛」という言葉についてです

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【国語大辞典】(小学館)より

雌伏(しふく)

 ○(雌鳥が雄鳥に服従する意)人に屈服すること

  また、今の状況に身をまかせながら、活躍の機会をじっと待つこと。「雌伏十年」

 (対義語)雄飛(ゆうひ)

 

雄飛(ゆうひ)

 ○雄鳥が飛揚するように勢い盛んに勇ましく活動すること。「海外に雄飛する」

 (対義語)雌伏(しふく)

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【学研漢和辞典より

雌伏

 ①人に付き従う将来の活躍を期しながら、不満を忍んでがまんしていること

 ②世間から退くこと。

雄飛

 ①おおしくふるいたつ。大きな力をふるって行動すること

  対義語 雌伏

 ②未開の地や外国にいって、盛んに活躍すること。

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雌伏雄飛の解説・三省堂  新明解四字熟語辞典 より

しふくゆうひ【雌伏雄飛】

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 ○人に付き従い、低い地位に甘んじていることと、盛んに活躍すること。また、将来を期して人の下に従い、低い地位に甘んじ、やがては大いに羽ばたき活躍すること。「雄飛」雄鳥が飛ぶように、盛んに活躍すること。

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雌伏雄飛の解説 - 学研 四字熟語辞典 より

しふくゆうひ【雌伏雄飛】

 ○ある期間、自分を表に出さずに、人に従って過ごし、時がくれば、大きく活躍すること。将来のためにじっと耐え、準備する時期を経たらば、やがて絶頂の時期も来るだろうということ。

また、低い地位で人に素直に従うことと、盛んに活躍すること。

[註記]「雌伏」は、不満をしのんで人の下につき従うさま。

    「雄飛」は、おおしくふるい立つさま。 

[出典]『後漢書』趙典

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4052号 2023.1.7/ hideki-sansho.hatenablog.com #1092

2023年の幕開け~ チャイコフスキーの交響曲を聴く

............................................................................................... ○年末の12月27日にコロナに罹り、昨日の1月5日まで入院し、10日間の雌伏(しふく)を余儀なくされました。一方、戦いを制したコロナは、天高<雄飛(ゆうひ)

 ○(オス)と(メス)」、そして「飛ぶ」と「伏す」の違いをまざまざと見せつけられた思いがした。

 ○コロナにうち勝って退院し、遅ればせながら自宅で新年を迎え、『秀樹杉松』の新春第一号を書けることは、望外の幸せと言っていいでしょう。コロナ感染による年末年始10日間の「雌伏」は想像もできなかったが、まあ人生とはこうものでしょうか。苦労したが勉強にもなりました。今年はこれを生きる糧(カテ)とせねば。

 ○我が家に落ち着いて、さっそく聴いたのは大好きな

チャイコフスキーの音楽

交響曲第一番」<冬の日の幻想>交響曲第二番」<小ロシア>交響曲第三番」ポーランド『マンフレッド交響曲。特に『マンフレッド交響曲』はいいですね!

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【註】以下の解説は『クラシック名曲ガイド① 交響曲(音楽之友社1994刊)による。

交響曲第一番」<冬の日の幻想>

 ○チャイコフスキー初の交響曲。26歳の1866年に作曲。民族主義的な交響曲を目指そうとする姿勢がすでに端的に示されたものとなっている。<冬の日の幻想>とは作曲者自身による標題だが、まさにこの作品の持つ雰囲気にはロシアの冬を感じさせるものがある。

交響曲第二番」<小ロシア(ウクライナ)>

 ○この作品は<小ロシア(ウクライナ)>という通称で知られているが、それは第一章と第四章でウクライナ民謡が用いられていることによる。

 ○ウクライナは若い頃からチャイコフスキーがしばしば訪れていた土地であり、彼はここで親しんだ民謡に基づいて、1872年にこの民族色豊かな交響曲を作り上げた。

交響曲第三番ポーランド

 ○前二作の交響曲が伝統的な四章編成をとっていたのに対し、1875年に書かれたこの第三番は五つの楽章を持っており、作曲技法の成熟ぶりがはっきりと示されている。

 ○この作品の完成後すぐにあの白鳥の湖にとりかかっており、交響曲バレエ音楽といった全く異なるジャンルながら、同質の精神がこの二作には現れ出ていると言える。

 ○この交響曲は一般にポーランドという名前で呼ばれているが、これはフィナーレがポーランドの民謡舞曲であるポロネーズによっていることから、後世の人が付けただけのことであり、作品そのものがポーランドと直接関係しているわけではない。

マンフレッド交響曲

 ○1880年代に入った頃、チャイコフスキーはスランプに陥っていた。そうした折に、ロシア五人組のリーダー格にあったバラキレフから、イギリスの詩人バイロンの劇詩<マンフレッド>に基づく作品を書いてみないかという話を持ちかけられた。はじめ気の進まなかったチャイコフスキーも、この題材に取り組んでみようという気になって、1885年の作曲に打ち込み、四楽章構成のこの大規模な作品を作り上げた。

 ○標題交響曲だけあって、形式的にも内容的にもチャイコフスキーの他の交響曲とはまったく異なるものとなっており、マンフレッドを示す循環主題を中心に、ベルリオーズリストに通じるような、壮大なドラマティックな交響詩風の作品に仕立て上げられている。

<第一楽章>

 ○マンフレッドがアルプスの山の中でさまよいながら、人生に疲れ、思い悩む。かつての恋人アスタルテの思い出も彼の心を責めさいなむだけ。

自由な形式による重々しい冒頭楽章

<第二楽章>

 ○滝の飛沫にかかる虹の中にアルプスの仙女が現れる。

  幻想的なスケルツォである

<第三楽章>

 ○アルプスの仙人たちの素朴な生活を描いた、

  牧歌的な間奏曲

<第四楽章>

 ○アルプスの山神アリマネスの地下宮殿山霊たちの激しい乱舞そこにマンフレッドが登場する。呼び出されたアスタルテの亡霊がマンフレッドの死を予告し、彼の苦悩も終わる

激しい起伏で展開する、迫真力に満ちた劇的な終曲

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文と写真=Atelier秀樹

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『秀樹杉松』136巻4051号 2023.1.6/ hideki-sansho.hatenablog.com #1091