梅雨に濡れる花
前回に続き、中島京子『夢見る帝国図書館』の2回目の読書メモを、本文になるたけ即した形で紹介します。
草創期の図書館は、文部省(書籍館)→東京府(東京府書籍館)→文部省(東京図書館)→教育博物館と合併して上野に移転、と目まぐるしく変遷しました。全ては、財政困難が理由。
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東京書籍館は、国家が戦費を得るために文化機関を「廃止」した悲しき最初の例として、日本近代史に刻まれることになった。ペンはあっさり剣に負けた。
廃止を余儀なくされた東京書籍館は、永井久一郎の奔走や、職員の涙ぐましい努力によって、東京府書籍館となったが、この時の職員たちの合言葉は、「一日たりとも閉館せず」であった。
明治15年5月4日に書籍館は幕を閉じ、何事もなかったかのように5月5日に府書籍館は開館した[文部省から東京府への移管]。しかし、いかんせん、東京府には金がなかった。金がない。本が買えない。モチベーションが下がる。気持ちがくさくさする。
この年の8月、上野公園では鳴り物入りで第一回内国勧業博覧会が催され、連日やんやの人入りであった。とうぜん、博覧会が大好きな大久保利通の肝いりである。殖産興業万歳。日本エライ。上野東照宮前から公園へは、数千個の提灯が並んだ。あいかわらず、博覧会は派手であった。
一方、府書籍館の方は、10年、11年と時が経るうちに、残念ながらジリ貧の相を呈してきた。府書籍館の職員たちは、これではいけないと思った。盛り上げねばならない。東京府書籍館を盛り上げねばならない。幸いにして、看板をすげかえて東京書籍館を居抜きで使っている府書籍館は、もともと湯島聖堂大成殿にある。
湯島聖堂大成殿といえば、たいへん立派な孔子廟があった。この孔子廟は、これまで一般公開されたことがなかった。「これはお宝だ!」と、府書籍館の職員たちは思った。「府としてこれを公開すれば、府書籍館の名声は上がるに違いない」。そこで働き者の府書籍館員たちは、明治12年、定例閉館日のはずの3月15日に、館内参観日として特別オープンし、府書籍館のイメージアップに相務めた。これはたいへんなヒットであった。
あまりの評判に気をよくして、府書籍館の職員たちは、同じく9月15日の定例閉館日にも、奮発して特別参観を認め、さらに、雅楽の演奏もプラスすることにした。多数の参観人が早朝から詰めかけて、長蛇の列を作るほどになった。かつて昌平黌で儒学を学んだ年寄りの学者などは、「欧化欧化って、明治以来そんなものばかりで、ずっと憂鬱だったけど、パーっとお日様が照ったみたいだよ」と、大喜びしたものだった。
だがしかし、ふと我に返ってみれば、多くの人が孔子様を見に来るということと、府民が図書館を利用することとは、全然関係がないのであった。職員たちの心の何処かに、博覧会への対抗心が消えていなかったのかもしれない。金がなく、本が増えないのでは、図書館としては敗北である。
「府に賄えというのはもともと無茶苦茶だったのだ」「やはりきちんと国が運営すべきものである」「文部省なんとかしろ」という声が、さんざん上がった。
そして明治13年7月、東京府書籍館はその業務を再び文部省に移管することとなった。府書籍館時代は、バタバタと3年ほどで幕を下ろしたのである。[東京府から文部省へ再移管]
花の蜜を吸う昆虫
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「東京書籍館」→「東京府書籍館」→「東京図書館」と、名前を変えたのは、湯島聖堂の図書館で、これが明治5年から18年のことになる。
ちょうど「府書籍館」が再び文部省の管轄に戻り「東京図書館」と名を改めたころに、足しげく通い出した男がいた。もともとが兄の影響で本好きだった彼、淡島寒月は、図書館で『燕石十種』(えんせきじっしゅ)をせっせと引き写すという奇妙なことを始めた。『燕石十種』というのは、江戸時代の風俗や珍談奇談を集めた随筆集。60冊もある本を、毎日毎日生真面目に写している20歳かそこらの男というのは、かなり異様な目立ち方をしたらしい。
そこへまた、同じように図書館に日参する別の男があった。こちらは、男というよりはまだ少年で、名を幸田成行といった、のちの幸田露伴である。露伴は、寒月とは対照的に、ともかくそこにある本を何でもかんでも読んだ。家庭の事情で府立一中(今の日比谷高校)も東京英学校(今の青山学院)も退学せざるを得なかった露伴としては、抑えきれない向学心を、湯島聖堂の図書館で発散させたのだった。
若い幸田露伴は寒月に綽名をつけた。「ねえ、燕石十種先生って、呼んでもいい?」 露伴は寒月にたずねた。「いいよ」と寒月は答えた。二人は友達になった。同じころ、露伴とお同い年の少年、夏目金之助[漱石]も聖堂の図書館に通い、荻生徂徠の『蘐園十種』(けんえんじっしゅ)を無闇に写し取っていたのだが、このころ二人はすれ違うばかりで、まだ出会っていない。
梅雨時の神田川
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夢見る帝国図書館・5 火事に追われて上野へ 図書館まさかの再度合併
文部省に所管の戻った東京図書館が、明治18年に上野に引っ越した理由は、まず、なんといっても書庫が足りなかったことにある。図書館は、食べ盛りの男の子が食い物を欲しがるごとく、常に書庫を欲しがる。
湯島大成殿はもともと仮の住まいであり、あの、荷風の父の永井久一郎からしてすでに、「ここ、あくまで仮ですからね。早く欧米諸国みたいな図書館の体裁を整えてもらわんとね。新築の件お願いしますよ。東京府下上野御用地内に、一万坪、図書館建築地って決めておいでくださいよ。大至急ですからね。、、、」という文書を文部省に送ったくらいなのであった。それは明治9年のことで、そのまままともな返事もなく、ずるずる年月ばかりが経っていた。
火事と喧嘩は江戸の華。まだ東京と名前を変えて十数年間というころ、ともかく近隣に火事が多かった。文部省管轄になったことで、めでたく予算も増えて、着実に増えていく蔵書、それに連れてあらに増えていく利用者。そこへ襲う近隣の火事。「防火壁立てて」「書庫増やして」「書庫に防火壁作って」「もっといい書庫にして」。毎年、毎年、対症療法的な要望を出すのに飽き足らず、「早く、もっといい図書館を作って欲しい。だいたい、大成殿なんて、もともと図書館向きにできてないんだよ。こんな開けっぴろげな施設。火事があったらどうすんの!」
という不満が、まさにガスのように膨れ上がっていたその矢先、隣の東京師範学校校舎から、とうとう出火した。火が、大成殿と反対の方向になびいていくのを見て、図書館人たちは号泣せんばかりであった。東京師範学校の大火の2年後、ようやく悲願を達成し、図書館は上野の地へ新築移転することになった。館員たちは、喜び勇んでその準備に当たったのである。
嗚呼、それなのに、いかなることか。翌18年、6月2日、文部省は図書館をあろうことか東京教育博物館に合併し、既築の同館内に移転する旨を発表したのであった。
理由はまたもや経費削減。その上、前年に約束した金2万5千円の交付を中止し、1万2千円に減額した新築費を交付するのみであった。新築を開始したものの、なぜだか金が足りなくなり、工事が中止となってしまうのだ。しかも、工事費に使うはずだった金はいつの間にか博物館の陳列場兼講義室の新築費に流用というわけで、東京図書館は上野に移ったが、建物は教育博物館に間借り、という状況が続くこととなった。
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(写真撮影:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』108巻2888号 2019.7.1/ hideki-sansho.hatenablog.com #528