シューマンを聴き、シューマンを読む。
↑ シューマン「交響曲第一番 <春> / ピアノ協奏曲 イ短調」
↑『クラシック名曲ガイド 1 交響曲』(音楽之友社 1994)
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バッハに続いて、シューマンを聴いています。根底は「シューマンが好き」だからですが、長年気になっていることもあったからです。
<編注>
今号は二部構成とします。
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(第二部)藤本一子著『シューマン』を読む
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(第一部)
~1841年作曲、作品番号38、初演1841年3月(今から181年前)
『クラシック名曲ガイド 1 交響曲』(音楽之友社、1994)の、
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シューマンの創作活動はピアノの領域から始まり、交響的な作品は約10年を経た1841年、いわゆる「交響の年」にはじめて集中的に現れてくる、ということはよく知られている。だが、シューマンは、少年時代に作曲を試みるした時からずっと、交響的なものへの憧れを抱き続けていた。「交響曲の年」以前にも、創作の試みは何度となく行っていたのだが、どれも身を結ばなかったのである。
彼が交響曲の領域に本格的に一歩を踏み出すきっかけになったのは、シューベルトの大ハ長調交響曲との出会いであった。1839年12月、自分がウィーンで発見したこの曲が演奏されのを耳にして、シューマンはこう語る。「……僕にもこんな交響曲が書けたらなあ」。こうしていよいよ「交響の年」が訪れるのである。
「交響曲の年」が明けた早々にシューマンは新しい交響曲の着想を得、1月23日の「家計簿」に「春の交響曲開始」と書き込む。作曲は一気に進み、26日には「やったぞ!交響曲完成!」と記される。睡眠時間を削りながら、シューマンはこの曲のスケッチをわずか4日で終えたのであった。
着想のもとになったのは、当時シューマンと交流のあった詩人アドルフ・ベットガーの詩『汝雲の霊よ』である。「………/谷間には春が花咲いている!」(前田昭雄訳)、この最後の行がシューマンの心を捉えた。
暗い冬の雲を跳ねのけるように、谷間から湧きいづる春の息吹。それを感じながら書き上げた交響曲の各楽章に、シューマンはこんな表題を付した。
1、春の始まり 2、夕べ 3、楽しい遊び 4、たけなわの春。
オーケストレーションは2月20日」に完了。楽譜はメンデルスゾーンに渡され、彼は3月31日のゲヴァントハウス演奏会で初演してくれた。シューマンは初演の後も、作品の手直しに励む。その過程で、「春の交響曲」という名称は、各楽章の表題とともに、取り去られることになった。四つの楽章からなる。(以下略)
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(第二部)
シューマンを読む
↑藤本一子著『シューマン』
(「作曲家◎人と作品シリーズ」。2008年音楽之友社刊)
小生から見ればシューマンは素晴らしい作曲家だと思いますが、クラシック音楽関係の本などを読むと、なんかスッキリしないのです。正当に評価されていないのではないか、私的なことが針小棒大に捉えられ、肝心の作品や音楽的価値、作曲家が後景に追いやられてはいないか、と。
一介の「クラッシック音楽ファン」「シューマン好き」なだけの素人なので、筋道立った説明はとてもできません。そんな長年の思いを秘めつつ、今回久しぶりにシューマンの作品(交響曲・ピアノ・ソナタなど)を聴きました。ただ聴くだけでなく、手元の解説本などを取り出して、シューマン関係を拾い読みしました。
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⚫︎クラシック音楽ガイド (成美堂出版)、⚫︎クラシック音楽鑑賞事典 (神保けい一郎、講談社)、⚫︎クラシック音楽作品名辞典(三省堂)、⚫︎燃えるクラシック この100曲(インプレス)、⚫︎クラシック名曲ガイド 1 交響曲(音楽之友社)、⚫︎同 6 ピアノ曲」(同上)、⚫︎クラシック音楽歳事記(千倉八郎、春秋社)
◉藤本一子著「シューマン」(作曲家◎人と作品シリーズ、音楽之友社)を読みました。
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この本は ””拾い読み”どころか、精読しました。本稿に写真を載せたこの本の表紙帯には、こう書かれています。
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◉愛と芸樹に生涯を捧げた悲劇の巨匠
◉作曲家の真実に迫る新しい発見が満載
◉すべての音楽ファン必携の決定版評伝シリーズ!
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上掲カバー帯の「作曲家の真実に迫る新しい発見が満載」が、本書の「あとがき」を指しているのがわかりました。貴重な論考ですので、(全文ではありませんが)大部分を引用掲載します。これを読んで小生は「そういうことだったのですね。よく分かりました。有難うございます!」
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○著者 藤本一子(Itsuko Fujimoto)
○書名「シューマン」作曲家◎人と作品シリーズ
○出版:音楽之友社 1994年
◉あとがき(p.218ー210)
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一昨年になりますが2006年、私たちは、ローベルト・シューマンの没後150年を迎えました。これを受けて、シューマン最後の活動の地デュッセルドルフでは、シューマンの貴重な資料を数多く所蔵してきた「ハイネ記念館」において、ハイネとシューマンの没後150年「芸術の最後の言葉」展が催されました。(略)
ローベルト・シューマンは19世紀前半において、社会や音楽の動向を注意深く観察しながら多彩な活動をを行い、たえず斬新な試みを提示していった音楽家でした。音響や音楽形式の実験、さらには評論の方法の模索など、あらゆる点において革新的であったと言えましょう。
ところがかつてのシューマンの生涯は、そうした創作の方向とは若干、異なった面で伝えられてきた感があります。その一つはクラーラとの関係において、です。シューマンのライプツイヒ時代初期は、二人の愛と結婚をめぐる ”感動的な” 物語を通して、ある意味で私的な側面が拡大され、受容されてきました。
また後年のシューマンについては、ヴァジエレフスキによる最初の伝記(1858年)によって、幾分偏った形で伝えられてきました。ヴァジエレフスキはシューマン最後の赴任地ヂュッセルドルフにおいて、コンサートマスターとしてシューマンと近しい位置にあり、そこからこの音楽家について精神的な破綻を強調し過ぎる記述を残すことになりました。そして、それはなにより後期の作品理解に好ましくない影響を及ぼすことになったのです。
近年のシューマン研究はそれらを乗り越えて、新しいシューマン像の構築に進んで久しいとみられますが、2006年に公開された同時代のドキュメント資料は、研究者のみならず、シューマン愛好家にとっても、等身大のシューマンを知るための重要な役割を果たすことになるでしょう。ちなみにヴァジエレフスキの記述に対する見直しも、既に行われていることを付け加えておきます。
ところで、シューマンという音楽家がクラーラとの状況やヴァジエレフスキが伝える姿にとどまらない、19世紀の音楽社会において先進的な役割を果たしたことは、多くの人が考えるところに違いありません。ところがそれにもかかわらずこの人物について社会的な輪郭を描くことは、容易でないように思われます。
本書もむしろ生涯と創作の一端を点描するにとどまっています。このことは、ひとえに筆者の力不足によるものですが、自筆資料がまだ公開されていないという背景もあります。
シューマンはあらゆる音楽領域において作品を残したのみならず、評論や文学的な著作も数多く、さらに、同時代の音楽家や出版社との間に六千通を超えるとされる書簡を交わし、日記や家計簿も社会的な情報を多く伝えています。
『シューマン書簡全集』は現在準備中であるとの情報を得ていますが、ともあれ、膨大な文書資料が順次公開され、当時の社会の中で創作と活動が見直されたときに、時代の先駆者としてのシューマンの近代的音楽家像が明らかにされるでしょう。
とは言え、シューマンの芸術はなによりも音楽作品を通して体験されるものであることは、いうでもありません。『新シューマン全集』の刊行に伴って演奏もますます活発になり、1990年代以降は作品研究の面でも、これまでにない観点による形式分析や解釈が展開されています。
これらを通して、その革新性が明確にされるとき、19世紀の音楽史に新しい一面が与えられることになるのではないでしょうか。この展望の中で拙いものではありますが、ここに小著を送り出すことができますことは、とても大きい幸いです。(略)
最後になりますしたが、本書の執筆依頼をお受けして以来、かなりの年月が過ぎてしまいました。原稿提出の大幅な遅れにもかかわらず、辛抱強くお付き合いくださいました音楽之友社の出版部に、この場をお借りして、心から御礼を申し上げます。
2008年1月1日 藤本一子
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<編註>
最新研究を取り入れたこれだけの力作ですので、当然時間がかかったのでしょう。出版社もそれを承知で、原稿提出を待ったと思います。藤本一子(ふじもと いつこ)さんの本稿執筆の功績は大きいと思います。
読ませていただき、たいへん勉強になりました。お礼を申し上げます(『秀樹杉松』Atelier秀樹)
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写真 / Atelier秀樹
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『秀樹杉松』132巻3973号 2022.8.14/ hideki-sansho.hatenablog.com #1013