秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

半藤一利さんの遺作『戦争というもの』を読み、深い感動を覚えました。~これまでの幾多の小説・論考ありがとうございました。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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半藤一利『戦争というもの』(PHP研究所刊 2021年5月)

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半藤一利さんの遺作『戦争というもの』を読み、感銘しました。謹んで哀悼の誠を捧げます。

 

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本書は上記<まえがき>のような14章からなっていますが、8番目の「欲しがりません勝つまでは」の記述を2箇所紹介します。

秋も深まった昭和17年(1942)11月15日、大東亜戦争一周年記念 国民決意の標語」の大募集が行われました。朝毎読の三大新聞と大政翼賛会が主催し、情報局が後援というものものしさ。

応募総数32万人のうちから、11月27日に各新聞にいっせいに発表された入選作の、しかも最優秀作のように、大々的に伝えられた標語には、本当に地団駄を踏んで口惜しがった記憶が残っています。なぜなら、それは、

「欲しがりません、勝つまでは」

というもので、しかも麻布区(現港区)笄(こうがい)国民学校5年生の女の子がその作者である、というではありませんか。

この「欲しがりません、勝つまでは」は国民学校5年生作というので爆発的な大人気。銀座といわず、新宿、渋谷、浅草と、盛り場のあちこちらにこの標語のポスターが貼り出されました。(本書p.87〜90)

ここでまた、さかんに歌った替え歌が思い出されてきました。童謡の「夕焼小焼」のそれです。日が暮れて今日はこれでバイバイというときに、手を振りつつ悪ガキ一同で、しきりに合唱したものでした。

夕焼小焼で日が暮れない

 山のお寺の鐘鳴らない

 戦争はなかなか終わらない

 烏もおうちへ帰れない

烏が出世兵士のことであったのはいうまでもありません。兵隊さんは死ぬまで帰れなくなったのです。(本書p.94〜95)

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3852号 2021.11.19/ hideki-sansho.hatenablog.com #892

岩手県出身の内閣総理大臣は4~5人。都道府県別ではベスト3に入る?

 

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白河以北一山三文」
薩長から蔑視された東北地方

東北地方の東北部に位置する岩手県。自他ともに認める典型的な ”田舎”ですが、どうしてどうして、総理大臣が4~5人も出ているんですよ。この数は、日本で3位に入ります。ゼロの県が2桁もある中で。(私が岩手県出身だからというわけではないが)この際岩手県出身の総理大臣をご紹介します。

 

何年か前に調べた時は、岩手県出身の総理大臣は山口県に次ぐ2位の5人原敬、斎藤實、米内光政、東條英機鈴木善幸)でしたが、いつの間にか東條英機」が東京に移り、岩手が4人に減っているのに驚きました。もう一つビックリしたのは、岩手県の5人よりも下位だった東京が、2桁に増えてトップに躍り出ていることです。

 

地方出身の親から東京で生まれた場合は地方出身扱いが普通でしたが、「出身地」(「出生地」よりも「出身地」)の考えが強まり、結果として「東京出身」が増えたようです。東條英機もそのケースでしょう。

つまり、出身地(本籍)は岩手県だが出生地は東京。そのため、岩手出身だったのを東京出身扱いにするようになったようです。それと、A級戦犯として絞首刑になった東條から岩手県民の心が離れ、「郷土の誇り」が「郷土の恥」へと変心したのも影響しているのでしょうか。

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以下、いくつかのネット情報を紹介します。(諸説あり。集計の考え方や基準によるのでしょうか、実に多くのネット情報があります。時代の変遷もあるようです。)

 

歴代首相の出身県honkawa.2.sakura.ne.jp

 山口    8人

 東京     5人

 岩手     4人(原敬斎藤実、米内光政、鈴木善幸

 群馬     4人

  (以下略)

 

相の都道府県別人数一覧stubucky.com

 11人   東京

  8人   山口

  4人   岩手(原敬斎藤実、米内光政、鈴木善幸

  3人   群馬

  3人   石川

    (略)

   0人   11県

 

内閣総理大臣出身者の都道府県別一覧region.case.com

    14人  東京都

 (地方出身の親をもつ東京生まれの、安倍晋三岸田文雄福田康夫 東條英機らを含む)

    8人 山口県 

    4人 岩手県原敬斎藤実、米内光政、鈴木善幸

    3人 群馬県、石川県、京都府、鹿児島県

   (略) 

       0人 20県

 

以前調べた時は、岩手県は間違いなく山口県に次ぐ2位でした。

 第1位 山口県(人数までは覚えてません)

 第2位 岩手県(5人)原敬斎藤実、米内光政、東條英機 鈴木善幸

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岩手県出身の総理は東條英機」を含めると5人(長年そう扱われてきた)、東條を東京出身とすると岩手は4人となります。4人でも断然多いのですが。4~5人という人数について投稿されているブログを発見したので、参考資料として引用紹介します。

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岩手県出身の総理大臣は4人?5人?

   熊谷茂 丸光製麺・社長ブログmarumitsu-seimen.com

てっきり、私は岩手県出身総理大臣は4人だと思っていたのです。しかし「米内光政」と「鈴木善幸」の間にもう一人いたのです。それがあのA級戦犯の「東條英機だったのです。この記事では、実は岩手県盛岡市出身となっているのです。

Wikipediaなどで調べてみると、東京都出身となっているのですが、記事によると東京で生まれ育った「東條英機ですが、祖父も父親も南部藩士として仕えた、立派な岩手県人で、東條家の墓は今も盛岡市の久昌寺にあるそうです。

戦前の岩手の人たちは、「原敬」や「米内光政」よりも郷土の誇りとして敬っていたそうで、太平洋戦争直前に東條に権限が集中していくなか、内閣総理大臣陸軍大臣外務大臣、文部大臣、商工大臣、運輸大臣、と兼任の椅子が増えるたびに声援を送っていたそうです。

そして終戦。皆さんご存知の「極東軍事裁判」いわゆる「東京裁判」ではA級戦犯として、絞首刑の判決が下り、今は靖国神社に合祀されています。明治陸軍が生んだ秀才は戦後、郷土の誇りから一転してA級戦犯岩手県出身首相の声もいつの間にか消えて、東京都出身首相の方に名前が載ることが多くなったようです。

因みに、東條英機岩手県出身に数えると東京出身者(高橋是清近衛文麿鳩山一郎菅直人)より多い5人になって、山口県出身の8人伊藤博文山県有朋桂太郎寺内正毅田中義一岸信介佐藤栄作安倍晋三に次ぐ全国第2位になるそうです。

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参考まで、1年前の菅首相の誕生時のネット情報を紹介します。

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ヒントは戊辰戦争に? 東北出身の首相、岩手の4人なぜ?朝日新聞デジタル asahi.com

菅首相は「秋田県出身として初の、そして東北では5人目の首相だ。実はこれまでの4人は全員が岩手県出身で、うち3人は1900年前半に集中する。一方人口が多い宮城県はゼロだ。なぜだろう。

日本近代史が専門の伊藤之雄京都大学教授に解説してもらった。

菅首相までの4人(原敬斎藤実、米内光政、鈴木善幸)全員が岩手出身。伊藤氏は「偶然の要素もある」としつつ、東北などの諸藩が新政府軍と戦った戊辰戦争(ぼしん戦争 1868~69年)との関連性を指摘する。

 

盛岡藩士の家に生まれた原や米内は、薩長への敵対心や反骨精神が向上心に結びついたのだろう」。

戊辰戦争では東北・北越の諸藩が奥羽越列藩同盟を組んで戦った。なぜ盛岡藩だけが?

「たとえば会津藩は東京帝大総長の山川健次郎ら優秀な人材が輩出しているが、薩長が実権を握る政界で上り詰めるには敵対心が強すぎた。盛岡藩は、会津ほど薩長に極端に攻められていないので冷静に付き合えたのかもしれない」

大藩だった仙台藩はどうか。斎藤が生まれた水沢は仙台藩の一門の領地だったが、明治から岩手県。伊藤氏は、仙台藩が同盟を主導したのに、会津、盛岡各藩より早く降伏した点に着目する。

 

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3851号 2021.11.17/ hideki-sansho.hatenablog.com #891

東北・岩手が生んだ ”平民宰相” 原 敬 = 第19代内閣総理大臣、立憲政友会総裁  ~ 今年は100回忌です。

 

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政党政治の礎を築いた平民宰相 原 敬」 原 敬100回忌記念フレーム切手

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前号では、東北への蔑称白河以北一山三文」を取り上げ、1)仙台の河北新報の題号が白河以北に由来していること。2)旧盛岡藩出身の平民宰相原敬の号「一山」「一山三文」に因んでいることを紹介しました。

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今回は、ことし100回忌を迎えた「原 敬」をとり上げます。

原敬が「一山」と号したのは古くから知ってましたが、「白河以北一山三文」の「一山」に由来すると知ったのは後年です。

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ウィキペディア ja.wikipedia.org)によれば、

原敬(はらたかし=1856年安政3年~1921年大正10年)は、日本の外交官、政治家。「はらけい」と音読みが用いられるケースもある。(原敬記念館、「原敬日記」など)。号は一山、逸山(いつざん)。

外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任。

大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相」と渾名された。

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「近代日本人の肖像」(国立国会図書館 ndl.go.jp) には。こうあります。

原 敬 (はらたかし 1856-1921)

大正3年 (1914) 第3代立憲政友会総裁。7年首相となり、初の本格的政党内閣結成するが、10年東京駅で暗殺された。

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原敬の出身地の岩手県盛岡市では、原敬記念館を中心に

原敬100回忌記念行事が開催されました。

○第100回原敬忌追悼会(11/4)

原敬の精神、継承を誓う 盛岡で100回忌記念の集い(11/6)

○「平民宰相」100回忌記念の集い(テレビ岩手)

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政党政治の礎を築いた平民宰相 原 敬」

 100回忌記念フレーム切手(1330円)が発売されています。

(郵便局 shop.post.japanpost.jp

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盛岡市HPcity.morioka.iwate.jp)の情報をお伝えします。

<もっと知りたくなる原 敬>

 

ハラケイ?ハラタカシ? どっちが本当?

原敬の読み方は、「ハラケイ」と「ハラタカシ」のどちらが正しいのか知ってますか?

実はどちらも間違いではなく、「ハラタカシ」は本名、「ハラケイ」は愛称です。原が総理大臣として活躍していた頃、盛岡の人たちは、親しみを込めて「ハラケイさん」と呼びました。

現在、原敬の史料を保存・展示している「原 敬(ハラケイ)記念館」と、原が46年間書き綴った「原 敬(ハラケイ)日記」「ハラケイ」の読み方を名称にしていますが、これ以外は「ハラタカシ」と読みます。

日本における政党政治100年の原点 本格的な政党内閣を初めて実現させたのは原敬です。それまでは、薩摩藩長州藩の出身者などで占められた内閣でしたが、出自に関係なく国民に選挙で選ばれた政治家が、3年の長期にわたり国政を担ったのは、原内閣が初めて。

貴族階級の証しである「爵位」を持たない初の総理のため、「平民宰相」として国民に親しまれました。東北はもちろん、東日本出身者で初の総理でもありました。

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全国各地で鉄道敷設や港湾整備を進め、地方の経済発展を目指しました。また教育改革として高等教育機関を充実させ、人材育成にも力を注ぎました。早稲田や慶應など有名な私立大学が大学に昇格したのも、この時です。

 

外交では、自国の利益を優先して軍事力で他国へ侵出するのではなく、特に米国との関係を重視 した国際協調外交を展開しました 。 これは戦後の日本が採った外交方針の原型になったといわれています。

しかし、当時はこれを「弱腰外交」と批判する声もあり、暗殺の一要因になったとする見方もあります。

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3850号 2021.11.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #890

岸田文雄『岸田ビジョン』を読み、岸田さんの ”総理への階段”を作ってみました。

 

 

岸田文雄『岸田ビジョン』(2021年10月講談社+α新書刊)を読みました。岸田さんは、久々に登場した信頼できる本格政治家ですね。期待しています。

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本書の構成は以下のように、<はじめに>と1章~6章からなっています。

<はじめに>

対話のなかから信頼を築き、リーダーシップを発揮する私のタイプのような政治家が、いま求められているのだと信じています。(略)ひとりでも多くの方に、政治家・岸田文雄、人間・岸田文雄の実像を知っていただければ幸いです。(p.11)

<第2章 ヒロシマから世界へ>

広島出身者として、私がライフワークとしている「軍縮もまさに、この「分断から強調へ」「対立から協力へ」が求められる分野です。核なき世界」の実現のために政治生命を捧げたいと考えています。(p.64)

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それでは、岸田文雄『岸田ビジョン』から、 ”総理への階段”を、私が勝手に構成編集した「読書メモ」を紹介します。

<註>

”総理への階段” は私の造語で、岸田総理の著書『岸田ビジョン』には一切出てきません。ご了承ください。

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1) 1957年東京渋谷区に生まれる。(父は広島県出身の通商産業省官僚)

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2) 小学校1~3年はニューヨークで生活

父の文武は衆議院議員になる前は通産省に勤務する役人。1963年父がニューヨークに駐在することになり、小学校一年生から三年生までは、アメリカ・ニューヨークで暮す。(p.126)

当時、全日制の日本人学校はなく、地元のパブリックスクール(公立小学校)に通う。クラスは、白人・黒人・インド人・韓国人など、まさに人種の坩堝(るつぼ)。教室の壁には「差別はだめですよ」と書かれていた。実際には差別は存在し、私が政治家を志した原点とも言える。(p

.130)

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3) 開成高校野球部の青春

永田町小、麹町中から荒川区日暮里の開成高校へ進学。私立開成高校は「御三家」(麻布高校武蔵高校と)と呼ばれるなど、当時から進学校として知られていた。

そんな開成高校時代は、野球に明けくれた3年間でした。私はショートかセカンドを守り、打順は一番か二番、時々六番。(p.133~134)

 

野球から学んだチームプレー

野球からは、多くのことを学びました。政治の世界と通じることが多々あります。言うまでもなく野球は団結力、チームワークをたっとぶチームスポーツです。(p.137)

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本書p.135掲載の写真から ↑

 

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4) 東大とは縁がなかった

なぜ俺の番号がないんだろう」。東大文一(法学部)の合格発表の掲示板を見て、3年連続、3度そう思いました。(p.138)

どういうわけか、私の周りの多くは「東大から官僚」のコースを歩んでいました。「みんな東大だから」私は自分も東大へ入れる、と勝手に錯覚していたのでしょう。開成高校は、東京大学合格者数が1982年から2020年まで39年連続で首位という学校ですので、「まあ、俺もいけるだろう」と安易にそう考えていたのです。(p.139)

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5) 3度目の失敗

3度目の挑戦となった1978年は、さすがにこれ以上浪人して両親に迷惑はかけられないとの想いを胸に、慶應義塾大学早稲田大学も受験しました。3度目の東大文一への挑戦も見事に失敗。ですが、ありがたいことに慶応と早稲田に受かりました。(p.141)

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6) 早稲田大学法学部へ進学

「早稲田はバンカラ、慶応はハイカラ」。慶応ボーイへの憧れはありましたが、男子校で野球に明け暮れていた自分の気質を考え、早稲田大学法学部に決めました。個性や多様性を大切にするという意味でも、早稲田の校風は自分に合っていたと思います。(p.141)

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本書p.143掲載の写真から ↑

 

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7) 早大時代の「校外活動」

早稲田でもまた、人との縁を感じる出会いがありました。高田馬場、新宿に飲みに行くとか、旅行に行くなど「校外」の活動ばかりでした。浪人生活の反動から、大学で少しでも良い成績をとることよりも、好きな音楽を聴き、麻雀を打ち、国内外へと旅することで、仲間と親交を深めていきました。(p.142~144)

<編注>

この早稲田時代が、”総理への階段” へとつながったのでは?

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8) 官僚の道諦め、日本長期信用銀行へ就職

 

東大入学が叶わなかったことで、当時人気だった官僚の道は諦めていました。まずは世の中を経験しなくては、とサラリーマンの道を選ぶことにした。内定をもらったのは、日本長期信用銀行(現・新生銀行です。日本興業銀行(現・みずほ銀行)、日本長期信用銀行日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)の三行は「長信銀三行」と呼ばれ、学生には人気の就職先でした。(p.146)

 

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本書p.147掲載の写真から ↑

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9) 父の 選挙を手伝う

多忙をきわめた行員時代でしたが、時には有給休暇を使い、父の選挙を手伝っていた。私が早稲田大学法学部に入学した1978年、父は通産省を退官し、祖父・正記の地盤であった広島1区から出馬することになりました。早稲田の学生時代と行員時代に、父の選挙を計4回手伝っています。(p.152)

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10)  政治への芽生え

こうした経験をしながら、芽生えてきた思いがありました。自分も政治家を目指したい――。ニューヨークの小学校時代に感じた人種差別に対する義憤。学生時代の数々の挫折や、友情。銀行時代に感じた社会の矛盾。父や身内の選挙に直接関わって目の当たりにした日本の政治の現実。(p.161)

振り返ってみると、世の中には理不尽なこと、おかしなことがたくさんある。変えていかなければならないことがある。一方、守っていかなければならないこともある。国や社会に関わるこうした事柄に、自分は直接関わりたい・・・・。(p.161~162)

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11) 政治家を目指し、銀行を退職、衆院議員秘書になる

自分も政治家を目指したい。秘書にさせてもらええませんか」。父は「そんなに甘い世界じゃないぞ」そう口にしました。「覚悟の上です」。1983年3月、5年間勤めた日本長期信用銀行を退社し、岸田文武の秘書となりました。(p.162)

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1991年、父が体調の悪化をこぼすようになりました。1992年、あっけなく亡くなってしまった。65歳と、あまりに早い死でした。わずか5年間でも、秘書として仕えられてよかったというのが実感です。(p.162~164)

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12) 衆院選に立候補

私は広島1区から自民党公認候補として出馬を検討していた。地元の多くの方から、「若いんだから新党から出ろよ」と何度も声をかけられましたが、選挙に有利だからと言って政党を変えることは私の性分に合わず、その気は全く起こらなかった。(p.177)

群雄割拠となった選挙区で、新人候補の私は「政治の師」とも呼ぶべき方に支援のお願いに伺いました。同じ広島県内で三区を地盤とする宮澤喜一総理です。「ブームは一時的だから」、宮澤総理が落ち着き払って話す姿に、不安な気持ちも軽くなりました。知性あふれ、温厚な性格で、ぽつりと発する一言にも含蓄があります。(p.178)

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13) トップ当選 / 野党議員としてのスタート

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本書p.183掲載の写真から ↑

 

93年7月18日の投開票日。選挙活動を通じ、手応えを感じていたが、初めてのことなので不安も拭えません。弔い選挙は元来優位ですが、新党ブームの波が凄まじく、どう転ぶかわかりません。結果はなんと、2位に二万票以上の差をつけた堂々のトップ当選でした。(p.181)

細川連立内閣が誕生し、自民党は結党以来、初の野党に転落。私の議員生活は、野党議員としてスタートしたのです。全国から勝ち抜いてきた自民党の新人の同期は、26名。その中に、安倍晋三さん、野田聖子さん、、、らがいます。二世、三世の世襲議員が多く、なまじ父親時代を知っているだけに戸惑いを隠せません。(p.182)

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<書き終えて>

○ 岸田さんは、バランス感覚に優れた政治家ですね。自民党内の人事、岸田内閣の閣僚の起用、どれひとつとっても行き届いた配慮が見られます。自派や仲良しグループで固める政治家が多いというのに。

○ 第一次岸田内閣のメンバーを見ても、早稲田出身4人、慶應出身4人です。早慶のバランスも見事。早慶以外の私大出身者も、有能な方々が適材適所に登用されています。

国民各層に広く目を配ろうとの政治姿勢も評価できますね。じっくり手腕発揮できる環境に、我々も配慮したいものですね。

 

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3849号 2021.11.14/ hideki-sansho.hatenablog.com #889

おめでとう!ヤクルト、オリックス ~ 日本シリーズ、どちらも勝って!

 

 

日本シリーズへの出場チームは、セ:ヤクルト、パ:オリックス、とカタカナ球団の対決と決まりました。

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しかも、 史上初の ”前年度最下位同士の対決” 。8度目の日本シリーズを決めたヤクルトは、オリックス(阪急を含む)とは3度目の対戦。過去2度はいずれもヤクルトが勝っているが、今回はどうか(スポニチ)。

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私のコメントは「見出し」に尽きます。今日(2021/11/13)の新聞「ニッカン」「スポニチ」「朝日」の記事と写真をご覧ください。

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日刊スポーツ

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スポーツニッポン

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朝日新聞
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「秀樹杉松」の本号は、奇しくもNo.888

「八」は「末広がり」といい、縁起の良い数字として昔から伝わっています。(略)永久的に発展、繁栄、繁盛するという意味があります(Google)。

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これを機会に、オリックス、ヤクルトがさらに飛躍するといいですね!

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3848号 2021.11.13/ hideki-sansho.hatenablog.com #888

「白河以北一山三文」~ 明治維新、戊辰戦争、薩長と東北

 

「秀樹杉松」前号で、津田左右吉古事記及び日本書紀の研究』を取り上げました。続いて『明治維新の研究』を読んでいるところです。私は明治維新には格別関心が高く、これまでも関係の本を何冊も読み、ブログ等にも書いてきました。明治維新といえば、戊辰戦争薩長・東北・白河以北一山三文、が出てきますが、私はその「東北」出身なんです!

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白河以北一山三文」(しらかわいほくひとやまさんもん) という言葉、ご存知でしょうか?(短く「一山三文」とも言います)。「一山三文」をネット検索したら、トップに河北新報HP(社長メッセージ)、二番目に図書館の「レファレンス協同データベース」、三番目に「白河以一山三文」の由来と河北新報(4)が出てきました。以下順次取り上げます。

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1)河北新報社 採用情報 ~社長からのメッセージ (河北新報 HP:kahoku.co.jpより)

「学生のみなさんは、東北地方に根ざした新聞、河北新報にどんなイメージをお持ちでしょうか。

明治維新以来、東北地方は「白河以北一山三文福島県白河地方から北は、一山に三文の値打ちしかない)」と蔑視されていました河北新報はあえて「白河以北」から「河北」の字を取って題号とし、「東北振興」と「不羈独立(誰の援助も受けず独立の立場で言論の自由を守る)」を社是に、1897(明治30)年1月17日に創刊されました」(以下略) 

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<編注>

私は就職して「新聞係長」を務めたときに、「河北新報」を知りました。もし大学時代に知っていたら、きっと河北新報社を受験したでしょう。なお、宮城県仙台市の『河北新報』は、東北を代表する新聞(いわゆる「東北ブロック紙」)です。

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2)レファレンス協同データベース

 

 図書館の「レファレンスサービス」をご存知でしょうか? ネット検索すると、次のような「ウィキペディア」の説明が出てきます。

図書館利用者が学習・研究・調査を目的として、必要な情報・資料などを求めた際に、図書館員が情報そのものあるいはそのために必要とされる資料を検索・提供・回答することによって、これを助ける業務である。(ja.m.wikipedia.org)

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このレファレレンス事例を有効に蓄積・活用するための、「レファレンス協同データベース」

があります。

レファレンス協同データベースレファ協

国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。

crd.ndl.go.jp

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明治維新に関係するキーワードの一つ「一山三文」を検索したら、トップの「河北新報」に続いて二番目に出てきたのが、以下にに掲げる <レファレンス協同データベース>の実例です。

(質問)

「元は蔑視表現である白河以北一山三文」という言葉が、東北人の反骨精神を表すフレーズとして使用されることがあるという記述を、インターネット上で見かけた。そのような使用法があることを裏付ける資料はあるか

 

(回答)(提供館 宮城県図書館

下記資料に記載がありました

資料1 河西秀通「続 東北」中央公論社 2007 

白河以北一山三文という言葉がある。(中略)この蔑称に抵抗する意味を込めて、宮城県仙台では河北新報が創刊され、旧盛岡藩出身で平民宰相といわれた原敬は「一山」と号したという。(以下省略)」

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「一山三文」をネット検索したら、三番目に出てきたのが次の白河以北一山三文」の由来と河北新報(4)(plaza.rakuten.co.jp)です。

東北を蔑視する言葉。河北新報の題号の由来でもある。盛岡藩出身の平民宰相原敬は、自らを「一山」と号した。(略)東北を蔑視する言葉だが、自らその表現を伝える我が東北人には、中央中心の見方に対する明確な外交意識を想起させる言葉でもある」。

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「この蔑称はどのようにして生まれたのか、戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが、実証されていない。今のところ「近事評論」の記事「白河以北一山三文」(1878年8月23日)を起源と見るのが最も信頼できる説だ」。

「往来で日本地図を開き各地の土人形を並べて、白河以北一山三文」と泣き叫ぶ売り子。聞けば、西南の人形は飛ぶように売れるが、東北地方はたたき売りでもしないと売れない。それが悲しくて泣いているという」。

 

「そこで、こう諭した。治乱盛衰は天の道、今は人気がある西南もいつ廃れるかわからない。やがて東北の人形が大いに売れる日も来るだろう。すると、売り子は納得したと見え、泣くのをやめて、再び大声で叫んだ。白河以北一山三文」

▪️出典 河西英通『続・東北 異境と原境のあいだ』中央公論新社中公新書 2007年)

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<編注>

津田左右吉明治維新の研究』については、次号で取り上げる予定です。

 

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3847号 2021.11.9/ hideki-sansho.hatenablog.com #887

津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究[完全版] 〜 ”不敬罪"で発禁処分、”皇室の尊厳冒涜”"出版法違反"で禁固刑 〜 を読みました。

 

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人間誰しも「必ず読みたい本」がいくつかあるでしょう。私においては津田左右吉古事記及び日本書紀の研究』でした。先日新聞広告でこの本を発見し、繰り返し読んで理解しました。まさに、歴史的な歴史書ですね!

 

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津田左右吉(つだそうきち)先生(1890~1961)は名前が面白い(失礼)だけでなく、父と祖父の中間ぐらいの年代なので、親近感を持っていました。私の大学入学は1955年ですし、学部も違ったので先生の授業は受けていません。

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津田左右吉は、歴史学者、思想史家。早稲田大学文学部教授記紀古事記日本書紀)を史料批判の観点から研究したことで知られ、日本における実証史学の発展に大きく貢献

ウィキペディア ja.wikipedia.org

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研究業績ー古代史研究

古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして史料批判を行なった。その方法は津田の創始ではなく、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程について一つの相当程度合理的な説明を行なった側面が大きい。

 

ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。(ウィキペディア ja.wikipedia.org

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津田事件 

1939年昭和14年)、津田が『日本書紀』に於ける聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて蓑田胸喜や三井甲之らが、「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪な思想家」として不敬罪に当たるとして攻撃

 

政府はこれを受けて、1940年(昭和15年)2月に、

古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』の4冊を発禁処分とした。津田は同年1月に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。

 

津田と出版元の岩波茂雄は同年3月に「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴され、1942年昭和17年)5月に  3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年昭和19年)に時効により免訴となった。津田事件また津田左右吉事件ともいう。

 

戦後、津田自身の戦前における弾圧の経験とあいまって学界に迎えられ、皇国史観否定する「津田史観」第二次世界大戦後の日本史学界の政治的主流となり、敗戦による価値観の転換を体現するものとなった。

(以上、ウィキペディア ja.wikipedia.org

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古事記及び日本書紀の研究』[完全版]の構成

 

南原繁(元東京大学総長)は、冒頭序<津田左右吉博士のこと>に、次のように書いています。

博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。

裁判になった博士の古典研究にしても、古事記』『日本書紀』は歴史的事実として曖昧であり、物語や神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。

右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。

戦後、博士が早大総長に選ばれた際、東大総長室に訪ねてこられ、「自分はその任でないと思うがどうか」と意見を聴かれた。そのとき私も研究を続けられるほうをお勧めし、博士のご意見と全く一致したことがあった。事実、博士はその後も学究の道一筋に歩まれた。

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総論

 

<第一章>新羅に関する物語 

<第二章>クマソ征討の物語 

<第三章>東国及びエミシに関する物語

 

<第四章>皇子分封の物語

<第五章>崇神天皇垂仁天皇二朝の物語

<第六章>神武天皇東征の物語

 

結論

付録

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』126巻3846号 2021.11.8/ hideki-sansho.hatenablog.com #886