秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

うたごえ喫茶「新宿ともしび」2年間の思い出(3) 斉藤隆店長・社長:新宿フィールドミュージアム「新宿坂まつり」 /  大野幸則前社長『うたごえ喫茶ともしびの歴史』

 

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3回目の今日は、うたごえ喫茶ともしび」斉藤隆店長・社長と、大野幸則前社長を取り上げます。

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1)斉藤隆店長:新宿フィールドミュージアム「新宿坂まつり」

 

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 注)一番奥の向かって右端に立ってベースを弾いているのが、斉藤隆さん(第18回ともしび春の大うたごえ喫茶:19/5/22)

 

「ともしび」では司会の歌リーダーが前面に出て、ピアノなどの伴奏者は奥に位置します。司会者が脚光を浴び、伴奏者はあまり目立たない感じになります。しかし、伴奏者の名演奏あればこその歌声と言えます。錚々たるメンバーが揃っている女性陣に混じって、2・3人の男性演奏者も頑張っておられますが、そのお一人が店長の斉藤隆さん

 

斉藤隆さんピアノが多いですが、大きなイベントではベースギターも演奏されます。どれも素敵ですが、私は、大きな舞台でベースを奏でる店長さんが一番カッコよく見えます。リクエストに答えたまに独唱されますが、お客はみんな静かに聴き入ります。店長だけでなく、ともしびの社長さんもされているそうで、店舗の移転、コロナ対策などで、頭の痛い毎日かと思います。頑張ってください!

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<新宿フィールドミュージアム

 

ところで、斉藤店長さんに今でも感謝していることがあります。確か一昨年(2018)の11月末だったと記憶してますが、昼の歌声の休憩時間に、店長さんと立ち話する機会に恵まれました。自己紹介で、今自分は「坂めぐり」をしており、坂学会に入りたい気持ちがあるが、連絡がつかないで困っている、と話しました。

 

そうしたら、斉藤さんが「坂学会の人を知ってます」と、坂学会理事の磯谷真理子さんの名前を教えてくださいました。お話によると、新宿区内の文化芸術団体による「新宿フィールドミュージアム」の活動に「ともしび」と「坂学会」も参加しており、イベントの一つ「新宿坂まつり」を坂学会が主催している、とのことでした。

 

<坂学会>

 

新宿区役所の「新宿フィールドミュージアム」事務局担当課に電話して、坂学会の磯谷さんの電話番号を教わり、これでやっと、坂学会に連絡がついたのです。実は、坂学会の事務所(建物)は特になく、事務局担当の理事さんが坂学会の窓口になっていることがわかりました。だから、ネットで「坂学会」HPを調べても、住所・電話番号が出てこないのでした。

 

以上の経緯をたどリましたが、斉藤店長さんに教えてもらって、どうしても連絡が取れなかった坂学会にたどり着き、入会を申し出て会員になれたのです。これは斉藤さんとのめぐり合いがあったればこそ、坂学会員としての今の活動にもつながったのです。斉藤店長さん、ありがとうございました!

 

<新宿坂まつり>

おかげさまで坂学会会員となった私は、翌2019年11月9日の「新宿坂まつり」(坂学会主催:新宿フィールドミュージアム)に、坂学会会員として坂歩きに参加しました。ちなみに、このコースは「2020東京五輪」のマラソンコースの予定でしたが、札幌に変更されたので、当時は「幻のマラソンコース」と呼ばれました。

 

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「新宿坂まつり」(坂学会主催:2019/11/9)で挨拶する 松本会長↑

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「新宿坂まつり」(坂学会主催:2019/11/9)で案内役の磯谷副会長  

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2)大野幸則著『うたごえ喫茶ともしびの歴史 歌いつづけた65年間』を読む

 

ともしび前社長の大野幸則さんは、著書『うたごえ喫茶ともしびの歴史~歌いつづけた65年間』(上下巻) の出版直前の昨年春(2019/4/13)に逝去されました。私は、同年5月26日に上野公園野外ステージで開かれた「春の大うたごえ」に参加し、この日発売開始されたこの本2冊(遺著)を購入しました。

さっそく読み始め、書名の通りうたごえ喫茶ともしびの歴史」を勉強し、いろんなことを知りました。その読書メモを本ブログ(2019/5/26~27号)に投稿しました。

エピソード

書斎の蔵書を少し整理しようかと、<秀樹杉松>「読書の軌跡」にリストアップしました。私の出身地の町立図書館に幾ばくか寄贈できればと思って、リストお届けしたら、50冊ばかり受贈するとの連絡が来ました。その中に、大野幸則『うたごえ喫茶ともしびの歴史』上・下巻が含まれていました。なんと言いましょうか、嬉しくなりました。

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<「秀樹杉松」再録> 

「ともしび」前社長大野幸則氏の遺著『うたごえ喫茶ともしびの歴史』の読書メモを収録した<秀樹杉松>2019/5/26〜27号を、以下に再録します。未読の方はどうぞお読みください。(注:長文なので、一部をカットして再録しました)

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大野幸則『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史―歌いつづけた65年間』を読む


上下巻の2冊で596ページに及ぶ大作、しかも密度の濃い内容で、感動のうちに読み終わりました。1回目は通読、2回目はこのブログ執筆を前提に、精読しました。ともしび喫茶音楽文化集団ともしびの詳しい歴史を知りました。何しろ私は、音楽文化集団のことは全く知らなかったのです。

 

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1)歌声喫茶の誕生(1954年)

新宿の「ともしび」で歌の司会者(清水正美さんたち)のお話にも時々出てくるので、聞いてはいましたが、本書の冒頭に次のように書かれています。(上巻p.005)

 

歌声喫茶開店秘話

歌声喫茶の誕生には、歌声喫茶らしいエピソードがあります。東京新宿は歌舞伎町、西武新宿線西武新宿駅の駅前の食堂で、店内に流れていたロシア民謡にお客さんが声を合わせて歌い始め「これだ」とひらめいた柴田伸氏(西武新宿駅前「灯」のオーナー)。1954年12月に、アコーター(アコーディオン奏者)、リーダー(司会者)を店に入れ、歌詞を書いて壁に貼って歌い始めたのが、歌声喫茶「灯」の始まりとなりました。

青柳常夫さん(ヤギさん)は、藤原歌劇団や東京コラリアーズで音楽活動をしていましたが、「やってみないか」という誘いで、歌い手兼司会者の第一号に。(略)

 

「そうだ、店の名前を考えよう」。歌といえば校歌しか歌えなかった柴田君の頭に、灯のメロディーが浮かんだ。ともしび!そうだ灯がいい!こうして、日本で最初のうたごえ喫茶”灯”が誕生した。歌声喫茶灯の壁を最初に飾ったのは、ロシア民謡の“カチューシャ”でった。(p.007)

 

「灯」「どん底」「カチューシャ」。歌声喫茶の元祖はどこだ!

歌声喫茶の元祖はどこか?だ!の元祖争いがあった?

この頃は歌声喫茶」というネーミングはなかった。当時「灯」は「美声と音痴の店 灯」と言っていた。どん底は単に酒場。いつの間にか誰からともなく、マスコミなどが「歌声喫茶」と呼ぶようになった。(p.012)

 

歌声喫茶とうたごえ運動

歌声喫茶」か「うたごえ喫茶」か。当時関鑑子さん主宰の「うたごえ運動」と区別する意味でも「歌声」と漢字表記した。歌声喫茶とうたごえ運動は、時代の息吹を一つにした文化の違った表現と言ってよい。

ロシア民謡ソビエト歌曲がこの時代の一つの文化をリードした。うたごえ運動は「うたごえは平和の力」と掲げる運動を展開し、「がんばろう」や「原爆を許すまじ」などの曲を生み出した。歌声喫茶はさらに叙情的な「北上夜曲」や「忘れな草をあなたに」などを生み出していく。

闘いの歌が人々を励まし、明日を生きる勇気を生み出しともに歌い合うことで人間的な感動を共有する―-歌声喫茶はいつしかそんな場所へと育っていった。

 

コマ裏「灯」始まる (1958年、歌舞伎町に二軒の「灯」)

西武新宿駅前「灯」店舗ではお客さんに対応しきれなくなり、1958年に一時閉店して大規模な新しい店とすることになった。新装開店まで数ヶ月かかるので、新宿コマ劇場の隣にあった麻雀屋を改装して、歌声喫茶として開店することになった。その後コマ裏「灯」、コマ横「灯」と呼ばれる。当時の司会はヤギさん(青柳常夫)一人で一日8ステージをこなしていた。

 

西武新宿駅前「灯」の新装開店(1959年7月)

2階席もあり300~400人は入れる、ステージホール並みで、ピアノ、ドラムス、ベースギターを基本とする生バンドの演奏。新装開店当時、バンドはコマ裏「灯」と西武新宿駅前「灯」掛け持ちで、司会のヤギさんがは新店に戻らなかった一時コマ裏で仮営業的にやっていたメンバーは、そのままコマ裏にも残ってやっていくことになった。

西武新宿駅前「灯」は、レコード会社などにしっかりつながった生き方を展開、歌声喫茶の中でそれぞれ特徴が浮き彫りになってきた。

 

2)歌声喫茶の爆発的広がり(1959年頃)

新宿】=「灯」(西武新宿駅前)「灯」(コマ劇場裏)どん底「カチューシャ」(東店)(西店)、【渋谷「牧場」「カチューシャ」、【池袋「山小屋」「やま」「アルプス」、【巣鴨白十字、【高円寺「ボルガ」、【蒲田「赤トンボ」

 

3)歌声喫茶の相次ぐ閉店

歌声喫茶のブームに陰りが見えはじめ、閉店する歌声喫茶が相次いだ。最初の一大事!コマ裏「灯」(新宿)にて労働組合結成(1962年)

なぜともしびが、歌声喫茶として生き残ったかは、1962年から始まる一大事に立ち向かった先輩たちの行動や考えにある。そのことによって、他の歌声喫茶と違った道をともしびが歩むことになった。

1962年(S32)2月、一人のウエイトレスが解雇されたことに憤激したコマ裏「灯」の従業員たちは、労働組合を結成、解雇を撤回するよう求めて立ち上がった。経営者は「店を閉鎖し、全員解雇する」と通告、労働組合の反対で、通告を撤回。

 

 

歌声喫茶の第三世代】

1070年代という時期に、若い力を吸収し、うたごえ喫茶の第三世代が形作られ、新たな盛り上がりを作り出した。第一世代:ヤギさん(青柳常夫)、越膳正明、第二世代:日高孝、金城広子、伊藤晴夫ら、ともしびでは、中西明大野幸則団塊の世代)・・・

 <註>故大野幸則氏は前社長で本書の著者

 

【1972~73年ごろの亀戸店】

73年には金指修平が参加

 

【1980年代初めに入社した専従団員メンバー】

清水正(81年4月)、小川邦美子(82年1月)、吉田正勝(82年2月)、行貝ひろみ(83年4月)、斉藤隆(83年7月)

斎藤隆氏は、店長・社長

 

【1981のともしび各店の体制】

新宿店長:中西明、亀戸店長:吉田正勝、吉祥寺店副店長:小川邦美子

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『秀樹杉松』107巻2863号 2019.5.26 hideki-sansho.hatenablog.com #503

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大野幸則『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史 ― 歌いつづけた65年間』を読む(続)

編集 

3)歌声喫茶の相次ぐ閉店

最初の一大事!コマ裏「灯」(新宿)にて労働組合結成(1962年)

1962年(S32)2月、一人のウエイトレスが解雇されたことに憤激したコマ裏「灯」の従業員たちは、労働組合を結成、解雇を撤回するよう求めて立ち上がった。労働組合を嫌った経営者は、「経営の見通しが立たない」として「店を閉鎖し、全員解雇する」と通告してきた。労働組合の反対で、通告を撤回。(前号はここで終わりました

 

労働組合、経営立て直し案を提案

創立10年で存立の危機に立たされた組合側は、これを機に、経営立て直しの自主的計画を作成。

店内にたくさんのサークルを作る、②店ステージを文化創造の場にする、③店宣伝を兼ねて積極的に外部団体に出演する

 

サークル協議会の発足  (1963年)

灯合唱団」(53名)、「灯峯山岳会」が作られ、灯サークル協議会が発足。歌声喫茶では、山の好きな人たちによって山の歌が紹介され、数多く歌われた。

 

「灯を守る会」から「灯を発展させる会」へ

経営者の「店閉鎖、全員解雇」の再度の通告に対して、従業員(労働組合)だけでなく、お客さんの有志が「灯を守る会」を結成し、会員は600名に達した。翌年夏、三度目の「閉鎖」通告。何が起こるかわからない状況の中、職場を守るため、従業員たちは店内に泊り込みを始め、守る会の人たちも交代で泊り込みの支援を始めた。経営者も今度は必死の構えで、組合員の追い出しのため暴力団を使うことをほのめかすなどの緊張した毎日であった。「灯を守る会」は「灯を発展させる会」と改称、会員は1400名になった。

7月に「選挙で戸別訪問した」と警察が組合員一人を逮捕し、早朝5時ごろ、100名ほどの警官が店を包囲し、組合員を外へ追い出し、家宅捜査。不当逮捕された組合員は「完全黙秘」で、不起訴処分を勝ち取った。

 

遊びの達人たち

オペレッタ劇団「灯」には「灯」を発展させる会」とともに、多様なサークルがあり、また、「労音ともしび」「AA連帯ともしび」等が、他団体との交流、国際連帯の活動を展開。

 

構成ステージの始まり(1964年)

店再生の自主計画の二番目、「店ステージを文化創造の場に」の方針のもとに、店内構成企画が次々と取り組まれた。国民的課題を正面から取り上げ、また世相を巧みに切り取り、感動的なステージが構成された。

 

平凡パンチに取り上げられた「えらく楽観的な奇妙な争議」(1964年)

1964年、新宿のコマ裏「灯」はついに争議に入り、労働組合が職場管理を続けた暴力団が壊しに来るということで、毎日泊り込みが続いた。

営業後、お客さんが帰った後、一階の客席の丸イスを二階へ上げ、並べてベッドとし、カンパでもらった布団を10枚ほど敷き詰めて泊り込みが始まった。窓からの侵入を防ぐため、内側から板張りをするが、営業中は外さなければならず、毎日付けたり外したり。泊り込みの時間を使って夜遅くまで学習会や討論会が行われるようになり、他の労組から支持者を含めて「労働者の学校」の感を呈した。

このことは「えらく楽観的な奇妙な争議」として若者向け雑誌『平凡パンチ』に取り上げられた。

 

オペレッタ「シンデレラ」の上演(1964年)

「催しをやって、お客さんに来ていただこう。来ていただくことが争議支援ということで、割引券付き前売り券をたくさん売ろう」と話し合い、あちこちへ訴えていった。取り上げた企画はなんと「シンデレラ」。貴族たちの退廃的な生活に飽き足らない開明的な王子は、庶民の娘シンデレラに惹かれ求愛するという設定がお客さんにも大いに受けて、繰り返し店内で上演されるようになった。

 

オペレッタ第二弾「おむすびころりん」(1965年)

集団創作が模索された。ベトナム戦争の影響もあり、もらったおむすびを食べて力をつけたネズミたちが、ベトコンに、そしてアメリカに見立てたイタチをやっつけるというもの。

 

コマ裏「灯」協定書結ばれる(1965年8月)

渋谷の「牧場」の会社偽装解散、組合員のみ解除されたことに対し、「牧場」の労働組合は都労委に提訴、翌年6月都労委は不当労働行為を認めたが、職場復帰はならなかった。

8月には様々な経緯と関係者の努力で、

コマ裏「灯」の労使の協定が結ばれた

一年後の再開を経営者と約束し、コマ裏「灯」から従業員が一時出て、再開を待つということだった。

労働組合と「発展させる会」では、「デッカイ灯を・全都にともしびを!」をスローガンに掲げて、こんな店を東京中にぜひ作ろうと手分けしてオルグに入った。

 

4)西武新宿駅前「灯」の歴史

本書『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史』は、私たち(コマ劇場裏「灯」)の歴史が中心になってしまいます。歌声喫茶としては西武新宿線駅前の店が「本家」です。

1960年代後半になると、東京では西武新宿駅前「灯」、吉祥寺「灯」、亀戸「灯」、新宿「カチューシャ」、「カチューシャ」渋谷店、「どん底のみとなる。

 

5)「夜明けの前がいちばん暗い」

 

ともしび運動史上最も困難な時代

1965年と、その後の活動は全く過酷と言ってよい状況だった。まさに「夜明け前夜」の様相だった。コマ裏の一年後の再開が約束されたが、給料は保証されていなかった自分たちで稼ぎ出さねばならなかった。吉祥寺「灯」も閉店が取りざたされ始めた。

ともしび運動の歴史の中で、この時期があらゆる意味で最も困難を極めた。オルグをサボる者、出演先にこない者や、ともしびを辞めようと思う者・・・。にも関わらず、組合員を支えたのは、閉鎖反対の争議時代の団結と、「全都にともしびを!」の夢と、一年後の約束されたコマ裏「灯」の再建再開であった。

 

「灯」吉祥寺店と新宿「灯」の連携

「灯」吉祥寺店でも変化が起りはじめ、社長(当時)から経営の困難さが言われるようになり、従業員たちは仕事を守るため労働組合を結成し、経営者が別だったコマ裏のメンバーと吉祥寺のメンバーが連携し合うようになり、現在のともしびの組織的運動の出発となった。

1961年に作られた吉祥寺「灯」でも1964年、ボーイの一人が当時60円の時給を65円にしてくれと要求し断られたのをきっかけに、労働組合が作られた。結成された労働組合は、新宿コマ劇場裏の「灯」の労働組合に支援を求め、ここから新宿と吉祥寺の関係が生まれたる。(経営者は別)

65年10月頃吉祥寺店で、経営困難を理由に企業閉鎖、全員解雇の通告が出た。しかし、翌66年2月「6ヶ月間、労使双方が努力する」、「6ヶ月たったらまた話し合う」で交渉がまとまった。

閉鎖撤回を勝ち取った日のステージでは、上條恒彦が男泣きに泣きながら勝利の報告をした。伊藤晴夫だけが終始冷静であったと「さすが労組委員長」と評価を高めた。勝利を機会に、上条ほか何名かが「灯」をやめ、巣立って行った

 

亀戸店開店への底流

コマ裏「灯」の時代から、常連のお客さんやサークルの会員、店での構成ステージへの出演者などに、東部在住の人がたくさん参加していた。秋葉原「ドリーム」での一日歌声喫茶は、人的にも地域的にも「灯」と東部を結びつけるさらに強い契機になった。「全都にともしびを!」を掲げた活動の中で、東部におけるかつての南葛労働会からの伝統を受け継ぐ労働運動と、何人かの強力なパートナーの存在との出会いが、

歴史的な亀戸店開店(1966)に結びついていった。

 

文工団「たんぽぽ」―公演活動の開始(1962年)

1960年台半ばは歌声喫茶にとっても転換点で、現在のともしびのもう一つの基礎、公演活動を開始した時代でもあった。

1962年に文工団「たんぽぽ」が作られ、1964年12月にはオペレッタ「シンデレラ」がコマ裏「灯」の店内で初めて上演された。66年11月にはオペレッタ「貧乏神」が四国労音11カ所で上演された。うたごえ喫茶65年になるが、ともしびの公演活動も57年続いている。

 

灯「オペレッタ

オペレッタ「ごんべえかかし」は、「灯」のオペレッタを見た学校の先生から子供向けの作品を是非にと懇願され、一晩でみんなで作った。

なぜ「オペレッタ」という言葉を使うようになったかですが、庶民的な音楽劇を目指した「灯」にとって、ミュージカルでもオペラでもなく、「小歌劇」と訳されるオペレッタがふさわしいと考えた。奇しくも、日本の能と狂言との関係に似ている。

 

6)この時期の「灯」について、あれこれ

「灯」と「ともしび」

歌声喫茶」と「うたごえ喫茶

 <註>この2項については、前号に書きましたので、ご参照ください。

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『秀樹杉松』107巻2864号 2019.5.27 hideki-sansho.hatenablog.com #504

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』116巻3657号 2020.9.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #697