第三部【忘れ得ぬ、想い出の断片】
○走馬燈のように、断片的な想い出が駆けめぐる。以下、これまでに書いた事柄とは別に、日頃今でも頭を去来する情景を、全くの順不同で、バラバラにメモってみたい。
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<池ものがたり>
○昔は家のすぐ裏に池があり、鯉や鮒を釣ったりした。また、付近には川がなかったので、集落の子供達の水泳プールでもあった。大人たちが自由形で泳ぐのを、感心して見入ったものだ。小生は泳ぎが苦手で、“犬かき”しかできなかった。今でも「かなづち」同然で、泳げる人がうらやましい。その分、勉強したと言えば恰好いいが、大人になってからも海水浴の楽しみを味わえなかった。
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<仔犬捨て>
○この池には、忘れることができない想い出もある。家で飼っている犬が仔犬を5・6匹産んだ。仔犬が沢山生まれたので喜んでいたら、一番元気そうなのを残して、残りは池に捨ててこい、と言われた。「間引く」ためだった。親たちの指示なので、捨て犬を籠に入れて池に行き、抛るように上から投げ込んだ。投げ捨てられて水の中で必死にもがく仔犬たち。
○小生たちは呆然と眺めていた。暫く観察していたら、溺れて苦しむ仔犬たちにどこからともなく大きな鯉が近づいて食らいついた。一瞬にして、仔犬たちは水中に沈んで見えなくなった。このすさまじい光景は、いつまでも忘れられない。子供ながら“間引き”の現場に立ち会ったことになる。
○ああいうことは大人のやるべき事で、子供にさせるのはどうか、と考えた時期もあったが、子供らへの「教育」が目的だったとすれば頷ける。昔は”間引き”のために、生まれたばかりの赤子を捨てたり、年寄りを山に捨てる“姥捨て”の風習もあったそうだ。池を見る度に昔の池を想い出し、人間社会の「業」に思いが及ぶ。
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<冬景色>
○寒い冬が長く、雪の中での生活を余儀なくされた。子供の頃は大雪が降り、朝起きたら軒下まで雪が積もっていたので、穴を掘って外に出たことがある。
○文部省唱歌『雪』「♪山も野原も綿帽子かぶり 枯れ木残らず花が咲く ♪犬は喜び 庭駆けまわあり 猫はこたつで 丸くなる」がピッタリの情景だった。“俺は犬だ”とばかり、外で遊んだものだ。
○東京は日本でも雪の少ないところで、今年はまだ一度も降っていない。こんな住みやすいところはなく、江戸に幕府を開いた徳川家康の先見性には頭がさがる。しかし正直言うと、雪の見られない冬は魅力に欠ける。東京で雪が降ると「あっ雪だ!」と小生は“子供のように”歓声をあげる。
○東北人は「ねばり強い」とか「心が暖かい」といわれる。「心の火」を燃やしながら、寒くて長い冬をねばり強く乗り切ったからであろう。
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<橇(そり)・ スキー ・ スケート>
○冬と言えば子供の頃は、坂道や畑で木製のソリに乗って遊んだ。雪がこんこんと降る中で、友とソリ遊びに興じた。遊びに夢中で暗くなっても家に帰らないので、心配した母が呼びに来てくれたこともあった。
○スケートは自分たちで作り、氷結した道路を滑って遊んだが、その域を出なかった。
○スキーは竹製のもので、先端に縄を付け、それを手で引っ張るようにして野山で滑った。ある時、野原を滑ったときに、スキーが木の根っこに引っかかり、小生は宙に飛ばされ、右肩から落下して骨折(脱臼?)した。これを契機に、スキーをやめた。大人になってからもスキーには関心が向かず、冬スポーツはついに何もやれずに終わりそうだ。
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<好きな食べ物>
○大人が大好きな食べ物は、子供の頃食べて育ったものが多い。小生の好物は林檎(リンゴ)、南部煎餅、南瓜(カボチャ)、納豆などだが、全部子供の頃好んで食べた物ばかりだ。ほかにも、栗、蜂蜜、甘酒、煮染め、ウルイ、まくわうり、なべこ団子、片栗粉、スカンコ(スカンポ:酸葉)、挙げれば切りがない。
○納豆は今でも毎日、我が家の食卓に出る。ただ、東京で売っている納豆は田舎と違い、粘りがなく、量も少いので不満はある。カボチャは毎日というわけにもゆかないが、時折食卓にのぼる。冬至には必ず出るので、毎年冬が待ち遠しい。
○女房が田舎に出かけて不在の時、決まって子供達にカボチャを食わせた。ほかに料理もできないので、立て続けにカボチャを出したせいか、子供がカボチャ嫌いになったのは皮肉だ。南部煎餅を売っている店は、東京ではなかなか発見できない。たまに何処かで目に付くと、買ってきて食べる。
○子供の頃は、キューリやトマトはあまり好きでなかった。キューリに味噌をつけて美味しそうに食べる人もいたが、小生はほとんど食べなかった。今は好物だ。トマトやキューリが、昔に較べて甘く美味しくなったせいかも知れない。
○魚類では、シャケやニシンが好きだ。特に「身欠きニシン」(当時は「磨きニシン」だと思っていた)とスルメは大好物だった。海から離れていたので、タコやイカは普段食べることはなかったが、祝儀・不祝儀の時には八戸から買ってきて、振る舞ったものだ。タニシ、イナゴ、ドジョーなども子供の頃食べたが、決して「うまい」とは言えなかった。
○学校から帰って何もないときは、戸棚から身欠きニシンを取りだして食べたこともある。今の生徒は、学校帰りに何人かでコンビニに立ち寄って、食べている光景をよく目にする。昔の田舎では帰宅しても何も置いてなく、いつも空腹感を抱えていたものだ。特に戦時中は厳しかった。
○栗は大好物だった。風邪の強かった翌朝などは、栗がいっぱい落ちているので、朝はたたき起こされたものだ。婆さんの「よその子たちは、とっくに起きて栗拾いに行った。いつまで寝てるんだ!」の声を聞いて、慌てて山に出かけた。起きるのが遅いと責められたので、「それでは量で勝負しよう」とばかり、籠一杯に栗を拾って帰宅したものだ。
○子供達が早朝拾ってきた栗は、大抵は夜遅くなってから、親たちが煮て食べた。もう寝なさいと言われても、栗が食べたいので、寝ないで囲炉裏端に座っていたが、やはりいつの間にか寝込んでしまった。目を覚ますと、大人達が煮たばかりの美味しい栗を頬張っていた。「わ(私)も食いたい」と言いながら、むさぼり食ったものだ。
○蜂蜜も美味かった。特に、煎餅の上に塗って食べると、最高の味だった。ある時期、養蜂家が家に何日間か泊まり込んで、ソバ蜜などを収集した。養蜂家の蜂箱が沢山家の裏に置かれていたが、その蜂に刺されて顔が腫れ上がったことがある。ハチ蜜収集が終わると、一升瓶にいっぱいつめた蜂蜜を、お礼に置いていった。
○煮染め(にしめ)、なべこ団子、ウルイなどが大好きだった。スカンコ(スカンポ)も美味しく、今でも見つけると口にする。
○今は何処の家でも白米を食べるが、当時は米は供出するので、普段は稗や粟を食べた。粟は黄金色だったが、稗は茶色っぽかった。米を「白い飯」と呼んだので、稗飯は「黒い飯」と称した。
○色の違いだけでなく、粘りが全くなく、小粒でポロポロしていた。家で食う分には問題なかったが、学校の弁当には持っていけなかった。だから昼休みになると、家まで走って帰り、冷たい稗飯に水をぶっかけて胃に流し込み、直ぐに駆けて学校に戻ったものだ。
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<農業の厳しさ>
○農家育ちなので、農業のことは知っているつもりだ。朝は暗いうちから、夜は真っ暗になるまで農民は働いた。今のように機械化されおらず、ひたすら肉体労働で、わずかに牛や馬の力を借りていた。百姓ほど辛い仕事はなかったが、それでも黙々と働き続けたのだった。真夏は、昼飯直後一時間ばかりの昼寝があったのをおぼえている。
○畑作では、稗・粟・蕎麦・大麦・小麦が中心だった。種まき、草取り、麦踏み、収穫、運搬など、冬季を除けば一年中手間がかかった。稲は、田打ち、種まき・苗づくり、田植え、田の草取り、稲刈り、運搬など、大変な労働だった。特に、稲刈りは人出のかかる一大作業だった。
○肥料と言っても、当時は「人糞尿」が主だった。ドロドロのウンコを素手で掴んで、畑に撒いたものだ。今から思えば汚くて不潔きわまりないが、当時は当たり前の事だった。
○馬や牛に食わせるための「草刈り」は大変だった。暗いうちに起き、馬車で草刈りに出かけ、草を家に運び終えてから朝食を食べた。口うるさい祖母が「よその○○は、とっくに起きて草刈りに出かけたのに、未だ寝ている」と叫んでいるのは、毎日の光景だった。T兄さんが可哀相だった。
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<農家の副業>
○昔は農業の他に、リンゴ、養蚕、葉タバコ、菊栽培など副業をやっていた時期がある。
○リンゴは本格的なもので、商品として出荷していた。子供達もおかげで、リンゴが食べられた。小生の大好物の一つがリンゴなのは、そのためだ。収穫して箱詰めをすると、「秀」とか何かの等級を刻字したものだ。
○収穫を待ちきれない子供達は、林檎の木からもいで食べたが、見つかると怒られるので、誰にも見られないように振る舞ったものだ。収穫は大人の仕事だったが、一本の木に一個ぐらい、取り残しがよくあった。高いところで手が届かなかったのか、それとも烏などに残して置いてやったのか、どっちだろうと「真剣に」考えたものだ。
○養蚕も一時やっていた。蚕がガサガサ音を立てて桑の葉を食べるのは、何となく不気味だった。リンゴ畑に桑の木を植えたのがよくなかったのか、リンゴの木の勢いがなくなり、長年やっていたリンゴ栽培は止めになった。
○葉たばこ栽培は、収穫して売るときはそれなりの金が入ったが、毎日毎日の手間が大変で、結局止める農家が次第に増えた。長期間頑張って葉たばこを続けた家もあったが、今では完全に姿を消していると思う。
○このように、農家は次々と副業に従事したが、日本の農村は大変貌したようだ。政府の農業政策の行き当たりばったりが、根本の原因ではないか。
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<野菜の栽培>
○野菜類の栽培も農家の大きな仕事だった。大根、蕪(カブ)、人参、牛蒡(ゴボウ)などの根菜はもとより、エンドウ、ササギ、キューリ、トマト、ナス、キャベツなど、野菜の種類は多かった。毎年時期が来ると、畑をこしらえて人糞尿を肥やしにして、種蒔きした。炎天が続くと決まって、芽を出したばかりの野菜が枯れてしまった。農業の厳しさを身をもって知った。
○キャベツには緑色の虫がつき、いつの間にか紋白蝶になって飛び回っていた。生命の循環を目の当たりにして、不思議に思った。
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<牛・馬物語>
○牛や馬は農家には欠かせない家畜だった。子供の頃は両方飼っていた時期もある。
○特に馬は生活と密接に結びついていた。「南部の曲がり屋」と知られるように、人間と馬は密接な関係にあった。文字どおり「同じ屋根の下」で寝起きしていた。馬に食べさせるための早朝草刈りは、農家の日課だった。
仔馬が生まれるときは、家人が付き添い、まるで人間のお産のようだった。人間と違い、生まれたばかりの仔馬は、直ぐに立ち上がってヨロヨロ歩き出すのには驚いた。
○毎朝の草運びだけでなく、物の運搬はすべて馬に頼った。馬は家族も同様と言っても過言ではなかった。それだけ、農民と馬の関係は強かった。戦地での「人馬一体」も分かるような気がする。
○南部馬は軍馬としても有名である。家でも戦時中飼っていた馬が、軍馬として徴用されて行った。稲刈りの日だったか、刈った稲の運搬途中に馬が狭い道から沢に転落したので、総出で助けたのを覚えている。
○仔牛を飼っている時期があった。夕方になると小生が外に連れだして、道路や空き地の草を食べさせたものだ。帰りが遅いため、家族が待ちきれずに夕飯を食べたこともあった。その牛が病気になって死んでしまった。可愛いがっていただけに、とても悲しかった。火葬に付し、肉をみんなで食べた記憶がある。
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<鶏、ヒヨコ、犬、豚>
○鶏は何羽も飼っていた。夕方になると、馬屋の上の止まり木に帰ってきた。だから夜明けを告げる声は、いつも傍で聞いた。卵は売ったので、食べることはなかったが、子供が風邪を引くと、体力を付けさせるために卵を与えた。だから、風邪ひいた、とウソをついたこともあった。
○トンビにとってヒヨコは「好餌」だった。親鶏が裏の畑でヒヨコを引き連れて歩いていたら、上空からトンビに襲われ、ヒヨコがさらわれた。親鳥は家の前まで逃げてきて、大声で「コケーココココ」と鳴き散らした。飼い主の人間に被害を知らせるためか、それともよその家の鶏たちに警報を発しているのか、いずれにせよ異常事態を放送していることが分かった。
○犬も時々飼っていた。仔犬ほど可愛いものはない。何処かへ出かけようとすると、必ずついてきた。追い払うのに苦労した。これ以上一緒に行くのは無理だと分かった犬は、全速力で今来た道を駆けて帰った。
○豚も一時期飼っていた。ブタは食べさせればいくらでも食べ、どんどん太った。その点、反芻時間が必要な牛とは違った。丸々と太って「一人前?」になると、商品として出荷された。ブーブー、としか言わないが、結構ブタは愛嬌があって可愛い動物だ。
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<ネコとネズミ>
○昔のネコはネズミを捕った。今はネズミがいないので、不思議に思うかも知れないが、当たり前の話だった。大体2階にはネズミが棲んでおり、夜中になるとよく「駆けっこ?」する音が聞こえたものだ。
○家で飼っている猫が、ネズミを捕まえてきて、家人の見ているところで、ネズミを噛んだり、離して逃がしたり、逃げるのをまた捕らえて囓る。こうしてたっぷり時間をかけてネズミをなぶり殺すやり方は、如何にもネコらしい?「ネズミ年」の小生がネコを好きになれないのは、子供の頃のこうした想い出が関係しているのかも知れない。「ネコが化けて出る」はウソではない?
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<蝉・蜻蛉(トンボ)・蛍>
○夏は蝉の季節だ。ある時期になると、決まって蝉が鳴き始めた。都会の子供のように網は使わず、手づかみでセミを捕まえたものだ。宿題に標本を作ったこともあった。
○何とも不思議に思ったのは、土中に10年(最長17年間)もいた幼虫が地上に出てきて成虫になり、10日余りの命を惜しむかのように鳴き続けることだった。アブラゼミ、エゾゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシなど種類も多く、それぞれ泣き方に特徴があった。
暑い真昼に辺りを震わすように鳴くセミもあれば、夕方にカナカナと切なく鳴くヒグラシもいた。「儚い」を象徴するような蜩の声は、今でも山に行くと耳にする。
○秋はトンボだ。アカネ、ミヤマアカネ、シオカラ、ヤマトンボ、オニヤンマなどがいた。アカネトンボのお尻を少し切り取って、白花を差し込んで飛ばして遊んだ。今から思えば、「昆虫虐待」に当たるが、子供はひたすら遊びに夢中だった。粘る餅(小麦粉)を棒の先端につけてトンボを捕ることもした。
○幼少の頃は、田圃にホタルがいた。暗くなってから、田圃に行って見たものだ。「幻想的」という表現がピッタリだった。“蛍の光、窓の雪”といわれるが、とてもじゃないが、本を読める明るさではなかった。
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<小鳥の啼き声>
○山村で生まれたので、鳥の鳴き声は子守歌や自然の歌声のように身近で聞いて育った。スズメ、カラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ハト、トンビ。挙げれば切りがない。
○山中に入ると、カッコーやホトトギスの鳴き声に接した。郭公(カッコー)はいかにものんびりした感じだったが、「アッチャトンデタ、コッチャトンデタ、テテテテ」と鳴く不如帰(ホトトギス)は急がしそうに聞こえたものだ。
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<鵯(ヒヨドリ)に寄せて>
○鵯(ヒヨドリ)は食いしん坊で知恵がなかった?から、捕るのは簡単だった。捕獲器(籠?)に餌を入れ、紐をつけておくだけでよかった。食い終わったヒヨが飛び立とうとすると、その紐に首がはまる仕組みになっていた。一日に何匹もつかまり、料理して食べたものだ。
○ヒヨドリは、今でも我が家に姿を見せる。大切にしている「千両」や「万両」の実を食べに毎年やってくる。他にも小鳥が来てくれるが、そのこと自体は嬉しい限りだが、当家自慢の赤い実を食べてしまうのには、正直困っている。
○その度に、幼い頃ヒヨドリを捕獲して食べたのが想い出される。「鵯」は、卑しい鳥と書く。何故この字を当てたか分からないが、なんとなく「然(さ)もありなん」という気がする。身体の色がさえないからの命名かも知れないが、可愛くない大きな鳴き声も影響しているのではないか。
○小生は50歳頃「急性胆嚢炎」に罹り、手術・入院に1ヶ月、自宅療養に1ヶ月と、二ヶ月も仕事を休んだことがある。自宅療養中は、身体のリハビリのため散歩を日課としたが、満開のサクラの木の下で、鵯(ヒヨドリ)が花を食べているのに気づいた。「梅に鶯」とばかり思っていたので、「桜にヒヨドリ」には驚いたものだ。
○因みに思うに、ヒエは「稗」と書く。白い「米」と対照される、黒っぽい色のせいかも知れない。高級感のある米に比べ、稗は文字どおり「卑しい、貧乏人の食べるもの」との印象が直ぐに浮かぶ。また、封建社会では身分の低い女を「婢」(はしため)と蔑んだ。
○圧巻はやはりウグイスだ。いくら探しても姿形は見つけられないが、鶯の「ホーホ、ケッキョ」という鳴き声は、周囲の木々の葉を震わせるように聞こえてくる。何とも言えない美しく荘厳な響きだ。山へ行くと今でも、ウグイスの鳴き声に歓迎されることがある。
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<庭仕舞い><盆踊り>
○毎日朝から晩まで働きずくめの百姓達だったが、もちろん息抜きの場もあった。秋の収穫が全部終わった頃、集落の全員が仕事を休んで一堂に会し、飲んだり食べたりする「庭仕舞い」があった。必ず出るのが「煮染め」で、この美味しさは格別なので、毎年待ち遠しかったものだ。
○旧盆には盆踊り大会が開かれ、集落の若い衆が「ナニャドヤーライ、ナーニャドナサレノ、ナーニャドヤーライ」と唱和しながら踊りに興じた。あちこちの盆踊り大会も見に行った。
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<魅惑の植物と花>
○田舎なので、植物とその花は Itu De Mo Do Ko De Mo見られた。こうした花に囲まれた大自然の中で育った小生は、すごく幸せだったと感謝している。春は「福寿草」や「スミレ」「タンポポ」「チューリップ」「シロツメグサ」などが花を咲かせ、綺麗だった。
○特に福寿草は「福」が付いた名前もさることながら、早春の頃に雪の中から芽を出してくる生命力と、黄金色の花の荘厳さに魅入られた。観梅の頃、東京でも福寿草の鉢を売っているが、高価なので買ってきたことはない。
○シロツメグサは家の前の道路にもあり、一番身近で清純さを感じる「道草」だった。
スミレは小さな植物だが種類が多く、とにかく優雅な花で大好きだ。今でも、野道に咲いているスミレの花を見つけると、立ち止まって観察する。タンポポ、スミレは、保育園や幼稚園の「組名」に使われるほど、ポピュラーで懐かしい花だ。
○桜は、今も昔も変わらない花の王者だ。小学校の校庭にも何本か植えられていた。生徒の運動会は毎年サクラ満開の頃に開かれ、親たちも見学に来てくれた。ゴザを広げてみんなで食べる昼飯は、格別に美味しかった。梅、桃、梨の花もいい花だった。
○桃の「桃色」は素晴らしい色に見えた。「ピンク」というと変な意味にも響くが、桃色は本来は魅力的な色な筈だ。「桃源郷」との呼び名もある。
○この他では、リンゴの花、菜の花、片栗の花、向日葵、待宵草などが印象深い。リンゴの花は清純そのものだ。菜の花の想い出は深く、今でもウォーキングなどで見かけると、昔愛唱した ♪菜の花畠に入日薄れ(朧月夜)を口ずさむほどだ。
○カタクリの花は、特定の場所でしか見られなかったが、高貴な姿は神秘的で、カタクリ粉も珍味だった。真夏の畑や庭に咲くヒマワリは、照りつける太陽に真向かう姿が印象的だ。
○この他挙げれば切りがないほど、いくらでもある。百合、ほおずき、露草、撫子、鳳仙花、松葉牡丹、立葵、菊、あざみ、山吹、夕顔、菖蒲、野薔薇、すすきetc.。家の周りの垣根を彩った「雪柳」の可憐で清楚な色は忘れられない。東京でも時折見かけては、父を想い出す。
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<山菜採りとヘビ>
○戦時中は、戦地へ送る目的もあり、よく山菜採りに出かけた。山では蛇に出遭うので、ヘビ退治用の棒を必ず持っていったものだ。蛇が出たらその棒でメッタ打ちしたものだ。そのうちに知恵も付いて、両端を尖らした棒に替えた。叩き殺したヘビの首や頭にそれを突き刺して、“逃げないように?”もう一方の端を土に突き立てた。
○小生はヘビは苦手だった。それでも兄や友達に教わって、ヘビの皮を剥いで焼いて食べたことはある。味の程は忘れたが、決して美味しいものではなかったような気がする。
○大人になってから、山へ行ったときに、やはりヘビに遭遇した。うっかり踏んづけそうになったこともあり。ヘビはどうしても好きになれない。
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<蒸気機関車にビックリ>
○国民学校の何年生だったろうか。遠足みたいな感じで、汽車が停まる駅までみんなで行ったことがある。結構長い道のりで峠越えはきつかった。
○煙をもうもうと吐き出し、ガッタンゴットンと猛然と走る蒸気機関車を初めて見て、恐怖感のようなものを覚えた。カルチャーショックといってもよいだろう。初めてSLが入ってきた時、当時の日本人たちがタマゲタことがよく分かる。
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<初めての海>
○集落は海から離れているので、海を初めて見たのも大きくなってからだ。記憶に間違いがなければ、中学生の頃「T海岸」に学校で行ったのが、海との最初の出会いだった。
○石の上を歩いていたら足が滑って、海水に落ち溺れそうになった。泳げない小生は必死でもがき、もうダメかと思った。ところが不思議なことに、身体が独りでにスーッと浮いたので、二度ビックリした。海水は池の水と違うので身体が浮くこと、もがかないでじっとしていれば浮き上がること、を先生が教えてくれた。
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<『仰げば尊し』/答辞>
○卒業式といえば、在校生が『蛍の光』を、卒業生が『仰げば尊し』を歌った。1年に1回のこの儀式は、何とも言えない緊張感と荘厳さのなかで挙行された。在校生は、卒業生の歌を聞きながら、先輩達はもう学校にいなくなるんだと淋しく思った。逆に卒業生は、在校生の歌に耳を傾けながら、後はお前達に頼んだぞと念じた。
○小生は『蛍の光』も『仰げば尊し』も大好きだった。こんな素晴らしい感動的な歌は他にはない、と今でも思っている。歌詞に問題があるのかどうか分からないが、歌われなくなったのは非常に淋しい。入学式や卒業式で歌われる歌は大きく様変わりしている。歌詞が長く、曲が難しくて(小生には)とても歌えないものばかりだ。
○生徒時代は「送辞」も「答辞」も読んだことがある。名誉あることだが、今では内容は覚えていない。ただ、「答辞」は前年度のものに少し手を入れるだけで、決まり文句の美辞麗句が並んでいたのを、微かに覚えている。卒業式当日の“晴れの舞台”では、夢中で早口に読みあげたような気がする。
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○テレビがなかったので、ラジオで野球の中継放送を聴いたものだ。当時は早慶戦華やかなりし頃で、小生は断然早稲田が好きだった。
○プロ野球は巨人-阪神戦を聴いた。テレビ中継と違い、興奮したアナウンサーの「絶叫」を聴いて、こっちも興奮したものだ。関東の巨人が好きで、川上、青田などを応援した。
○プロ野球は大人になってからも大好きだったが、今度はアンティ巨人だった。巨人を追われて九州の「西鉄ライオンズ」の監督となった三原脩が、中西、豊田、稲尾などの大スターを育て上げ、見事「打倒巨人」を果たしたのに、拍手喝采を送った。慶応出身の水原より、早稲田出身の三原が大好きだった。広岡監督も好きで、応援した。
○大相撲にも興味があり、放送をよく聴いたものだ。双葉山はもちろん最強だったが、小生はなんとなく照国が好きだった。大相撲史上で一番強かったのは「貴乃花」だと確信しており、貴乃花の大ファンだ。
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<昆虫記>
○田舎なので、昆虫は多かった。秋にはコオロギ、スズムシ、マツムシなどが合奏した。鳴き声がするので近寄ると、よく逃げられたものだ。逃げないまでも、鳴くのを止めた。だから、鳴いている様子を見るのは容易ではなかった。
○コオロギは黒くて大きいので、グロテスクな姿形は覚えているが、鈴虫、松虫などの正体は今もってよくは分からない。ともかく、秋は昆虫の合唱で賑やかだった。都会でも、夏は街路樹や電柱から蝉の鳴き声が絶えないが、夕方になって蝉が静かになると、代わって鈴虫が聞こえて来る。
○稲刈りが終わると、田圃には取り残されたイナゴがゾロゾロ出てきたものだ。強力な農薬を使い初めてからだろうか、イナゴが急に姿を消したのを覚えている。最近はどうか知らないが、イナゴは日本農業の“象徴”といってもいい昆虫だった。イナゴの居ない農業、案山子(かかし)の姿が消えた田や畑は、小生には淋しく思えてならない。
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<殺人事件>
○最近都会では「殺人事件」がよく報道されるが、60年以上も前の集落で人殺しがあった。次男が兄嫁と母親を鉈で殺害した大事件である。身体が弱いか何かで、兵隊に行かずに家にいたSが、兄が戦死したので、自分と兄嫁を一緒にさせろと要求したが容れられなかったので、それを恨んで犯行に及んだと聞いた。
○いずれにしても殺人は大罪だ。当時の静かな集落を震撼させた。あまり書きたくはなかったが、「子供の頃の想い出」の中に入れないわけにはゆかない。
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〜次号へ続く
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』130巻3939号 2022. 6.7 hideki-sansho.hatenablog.com No.980