遠藤良介『プーチンとロシア革命:百年の蹉跌』(河出書房新社)
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前号「『プーチンとロシア革命』(遠藤良介著)を読む」に続いて、同書の中の
「プーチンのレーニン批判、ロシア至上主義」の項を取り上げます。ロシア革命といえば、レーニンとスターリンが主役ですが、プーチン問題は、ロシア革命も絡んでくるんでしょうか。
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「プーチンのレーニン批判、ロシア至上主義」から、原文を部分引用します。
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○2016年1月25日、プーチンは支持団体「全ロシア人民戦線の」の大会で、出席者からソ連の創始者、レーニンについて問われた。
○「私は2000万人余りの人たちと同様に共産党員だった。それだけでなく、約20年にわたって旧ソ連国家保安委員会(KGB)で働いた。これは党の武装部隊と呼ばれた反革命・サボタージュ取り締り全ロシア非常委員会(チェカー)の後継機関である。(中略)多くの職員と違い、私は党員賞を捨てなかった。
○「計画経済には一定の長所があった。それによって、全国家の資源を最も重要な課題に集中させることが可能になる」とし、こう述べた。「全国家の資源集中がなければ、ソ連はナチス・ドイツとの戦争に備えることができなかっただろう。敗北し、破局的な結果となっていた可能性が高い」
○プーチンは同時に、レーニンについて、「わが国の建物の下に時限地雷を仕掛けた」と負の評価も口にした。
○内戦を勝ち抜いた共産党(ボリシェヴィキ)は、旧ロシア帝国の大半の地域で支配を確立した。ロシアのほかウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)、南カフスカ(南コーカサス)地方にソビエト共和国がつくられた。
○プーチンのいう「時限地雷」とは、ソ連創設が準備されていた1922年、レーニンとスターリンが、これらソビエト共和国をどう連合体化にまとめるかをめぐって対立した問題に関係している。民族問題担当の人民委員(閣僚)だったスターリンは、各ソビエト共和国に次のような趣旨の憲法草案を送っていた。
<各共和国は、ロシア・ソビエト共和国に加盟する。各共和国は、その中で自治体の地位を享受し、ロシア・ソビエト共和国の権力機関を連邦機関として受け入れる>
○これは、ロシアの地理的な拡大であり、各共和国のロシアへの編入にほかならない。穏健マルクス主義勢力、メンシェビキの勢力が強かったジョージア(グルジア)が、この案に強く反発した。ウクライナも難色を示した。
○病床にあったレーニンは、スターリン草案について報告を受けて色を失った。「問題は極めて重要だ。スターリンには少し性急なところがある」とレフ・カーメネフに書き送り、修正を図るよう指示した。レーニンの案は、全ての共和国が対等の地位で新しい連邦に参加し、連邦としての権力機関を持つというものだった。加盟共和国に脱退の自由も認めた。
○マルクス主義者は、「万国のプロレタリアート(労働者階級)よ、団結せよ」というスローガンに見られるように、抑圧されたプロレタリアートは国境を超えて連携し、階級闘争を行う―という固定観念を持っていた。
○レーニンもスターリンも、民族主義には冷淡だった。ただ、この頃のレーニンは、各地での民族意識の強さを目の当たりにし、少なくとも一定期間は彼らに歩み寄ることが欠かせないと考えた。1922年12月末に行われた第一回全連邦ソビエト大会では、レーニン案に基づく条約が承認され、ソ連が結成された。
○レーニンの案を「民族的自由主義」と批判していたスターリンは、1930年代、各地の民族エリートを粛清し、力ずくでロシア化や中央集権を進めた。その強権支配が緩み出したソ連末期、「時限地雷」が作動した。各共和国で独立運動が噴出し、1991年のソ連崩壊につながった。
○プーチンは、工業化や第二次大戦での勝利をもたらしたとしてスターリンを評価しつつ、ソ連崩壊の責めをレーニン一人に帰そうとしている。周辺諸国は黙ってロシアに服すべきだという大国主義、ロシア至上主義を如実に示していよう。
○スターリンの連邦案に反発したジョージアは2008年、ウクライナは2014年に、ロシアの軍事介入を受けることになる。
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写真 / Atelier秀樹
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『秀樹杉松』133巻3996号 2022.10.1/ hideki-sansho.hatenablog.com #1036